2017
10.12

ギャラリー60

Category: 未分類
◎これまで掲載した水をテーマにした写真をギャラリー60」としてまとめました。 

 
水は百面相 どれも水の顔には違いない 
 しかし どれも本当の顔ではない 
 心も同じこと
 
今回の写真は、1~2が「ペットボトル」、3~7は、竹島水族館で撮影したもので、水槽の中で湧き上がる気泡をシャッタースピードを変えながら撮ってみました。
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次回は「心の鏡R」を掲載(7回配信)します。ぜひ、ご訪問ください。

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2017
10.08

『菜根譚』に触れる ④/④

Category: 未分類


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 最後にこの本の中から私が心に残った1話を紹介したいと思います。


歳月(さいげつ)もと長(なが)くして忙(いそが)しき者 
自(みずか)ら促(せま)る。
天地(てんち)もと寬(ひろ)うして鄙(いや)しき者 
自らを隘(せま)くす
風花雪月(ふうかせつげつ)もと閒(かん)にして労攘者(ろうじょうしゃ)
自ら冗(むだ)にす                      
[後書4] 


 加藤氏の解説に頼りながら要約をします。年月は太陽や地球、月などの運行に関連づけられて計られますが、時間は、その太陽も地球も月も未だなかった昔から、またこれらがなくなったとしてもどこまでも続いてきます。時間は、この世界のできる前からあり、また、この世界が潰れてもあります。
 ところがこの永い永い時間の中で五十年か八十年か、せいぜい百年生きるに過ぎないのが私たち人間です。「石火光中(せっかこうちゅう)」という言葉があるそうですが、永遠の時間の中では、石と石とを打ち合わせたとき発する火の光の如く、束の間に消えてしまうのが私たちの命です。
 前段に「自ら促る」という表現がありますが、これはあくせくとこせつき回る様子を表すもので、永遠の時間の中でこせこせと忙しそうに騒ぎ回るのは、人生を自ら短くしているようなものだというわけです。
 また、時間が永遠であるように空間も無限です。大宇宙の中では、私たちの住んでいる世界など実に小さいものです。宇宙から地球を眺めるなら、狭い地上に境を作り、領域を定めて相争い、あまつさえ同じ領域の内でも、やれやイデオロギーだ、やれ党派だ、やれ宗教・宗派だなどといって優劣を競い、勝ち負けを論じ合っているのが私たちです。それが自ら世間を狭く、小さくしているということです。
 では、人生の時間を長く、また世間を広くする生き方とはいったいどのようなことなのでしょうか。逆説的な表現ではありますが、後段にヒントがあります。
 風や花、月、雪などは、常にゆったりとして動じません。したがって、それを静かに眺め、楽しむことができれば、私たちの心は安らぎ、豊かになって、本来の姿に回帰できるということです。反対に、いつも心が落ち着かず、せわしく駆け回っていると、せっかく自然の恩寵を無駄にしているばかりか、その生活を自ら煩わしいものにしてしまうということでしょう。
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    今さら言うまでもないことですが、人間は自然の中に生かされている存在です。ところが人間は、利便性や快適性の追求するあまり自然の姿を都合よく変更させ、自らを自然から遠ざけるに方向に歩みを進めてきました。[後書4]は、その現実を憂い、忙しく狭い生き方をしている人間に自省を求める一方、自然と同化し「自他一如」の境地の生きていくことの大切さを説いているのだと思います。

 『菜根譚』に収められた話の内、私が今回触れたのはその1割にも満たないものです。しかし、「菜根譚を読む」の著者である加藤氏は、著書の冒頭で「徒(いたずら)に外に求めず、これを内に求め、まず心を養ってこの心地の沈迷を救い、この性天(生まれつきの性質)の澄(す)徹(る)(澄んで透き通っていること)を期するのは菜根譚全体にわたっての教訓なのです」と述べられており、大いに共感するところがありました。
 『菜根譚』は、堅苦しい教訓を頑固に説いたものではありません。世相や人情に通じた、ある意味では実利的な教えも含まれています。これを機に、『菜根譚』の他の話についても少しずつ触れていけたらと思っているところです。(〆)

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2017
10.04

『菜根譚』に触れる ③/④

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次は、多川氏から紹介されたもう一つの話です。
 人の小過(しょうか)を責(せ)めず 
 人の陰私(いんし)を発(あば)かず 
 人の旧悪(きゅうあく)を念(おも)わず
 三者(さんしゃ)をもって徳(とく)を養(やしな)うべく 
 また以(もっ)て害(がい)に遠(とお)ざかるべし  
[前書105]   
        
  その意味は、概ね次のようになります。
 他人のちょっとした間違いを責めたりしない…。人が隠しておきたいことはそっとしておく…。人の過去における間違いをいつまでも記憶しておかない…。この三つのことを日常的に実行していけば、徳が養われ、人に恨まれたり疎まれたりすることはない…。
 前段の三つの警句は極めて仏教的ですが、後段の「人に恨まれたり、疎まれたりすることはない」という件はいかにも現実的で、実利的な感じも受けます。これは儒教の影響によるものでしょうか。
 この文章に触れ、仏教で説かれる「十重禁戒(じゅうじゅうきんかい)」を思い出しました。仏教徒の守るべきとされる十項目の禁止事項のことです。十項目の内の五つがいわゆる「五戒」です(不殺生(ふせっしょう)戒、不妄語(ふもうご)戒、不偸盗(ふちゅうとう)戒、不邪淫(ふじゃいん)戒、不飲酒(ふおんじゅ)戒)。私たちが比較的よく見聞きする戒律かと思います。
 そして、後の五つの中に「不説四衆過罪(ふせつししゅうかざい)戒」と「不自讃毀他(ふじさんきた)戒」という戒律があります(他に不慳(ふけん)戒、不瞋(ふしん)戒、不謗三宝(ふぼうさんぽう)戒)。
 要約すると次のようになります。
 「不説四衆過罪戒」…他人の過ちや罪を話し散らしてはならない。
 「不自讃毀他戒」…己を褒め、人を貶めてはならない。
 [前書105]は、この二つの戒に見事に重なります。著者が仏教思想に通じていたことをよく示すものだと思います。
 この番組の視聴後、遅ればせながら、改めて手元にあった加藤咄堂著「菜根譚を読む」を読み返してみました。全部で18の話が取り上げられていましたが、一つ一つの話が実に示唆に富むものであり、感銘を受けました。また『菜根譚』と仏教思想との深い関連性が感じられ、より親近感を覚えるところとなりました。
 最後に、この本の中から私が心に残った1話を紹介したいと思います。(以下、④/④につづく)
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2017
09.30

『菜根譚』に触れる ②/④

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 番組の中で4つの話が紹介されましたが、次は私が特に共感的に受け止めた話の一つです。
 悪を為(な)して人の知らんことを畏(おそ)るるは 
 悪中(あくちゅう)にもなお善路(ぜんろ)あり
 善を為して人の知らんことを急(きゅう)するは 
 善処(ぜんしょ)即(すな)ちこれ悪根(あくこん)なり         
[前書57]

 前段は、悪いことをして、他人にそれを知られたりすることは不都合なことだが、それを隠そうとすることの中に善い方向性が芽生えている-。悪いことをしたとしても、そのことを本人が自覚し、反省する気持ちさえあれば、その心の中に善に向けた芽生えがある-。概ね、こんな意味になるようです。
 一方、後段は、善いことをして、それを他人に早く知ってもらいたいと思うようなら、そこに悪への種が隠れている-。善いことをしても、これ見よがしにするような態度には、悪の根が芽ある-。こんな意味のようです。

 前段の「悪中にもなお善路あり」という言葉には救われるところがあります。山田無文老師(昭和に活躍した臨済宗の禅僧)の言葉に次のようなものがあります。「維摩経(ゆいまきょう)」の講義の中にあったものです。
  たとえ罪を犯しても、その人の本性までは汚れない。その汚れないきれいな心があればこそ「私は罪を犯した」と悩む。自分の悪が分かるということは、自分の中に仏がいるからだ。自分を厳しく裁いていく心は、神の心だ。仏の心だ。罪を犯したのは一時の出来心であり、それを裁くのが本当の自分だ。その本当の自分を自覚することが悟りである。
  無文老師の言葉を借りるなら『菜根譚』にある「悪を為して人の知らんことを畏るる」自分こそは仏であり、その心は神の心仏の心であるということです。
 一方、後段の「善処即ちこれ悪根なり」という言葉には、身につまされるところがあります。一般に私たちは善いことをすると、それを早く人に知ってもらいという気持ちが起こるものです。そして、よい評価が得られれば満足します。
 ところがいつも自分の思い通りになるわけではありません。ときには評価されなかったり、無視されることもあります。そして、そのことへの不満や怒りが元になって、逆恨みに発展するようなこともあります。それを「善処即これ悪根なり」と言っているのだと思います。「善を為して人の知らんことを急する」ような行為は、自らの器量の小ささを示すようなものであり、仏の心や神の心、さらには「悟り」の境地とは対極にあるということなのでしょう。私などには、誠に耳の痛い指摘です。
   [全書57]については、多川氏から次のような補足説明もありました。それは、「善悪の線引きははっきりとしたものとしてあるのでなく、いわば点線のようなものである」というものでした。つまり、善悪の境界はグラデーションをなしているということです。 
 悪を犯しても悔い改めれば救われ、善を実践しても謙虚に生きていく…。仏教で説かれる「懺悔(ざんげ)」と「陰徳(いんとく)」のことを述べたものだと思われます。つまりは善悪に境界はないということです。善も悪も、私たちの捉え方や受け止め方によって流動し、固定的な実体はないということだと思います。私は、仏教思想のこの柔軟性に魅力を感じるのです。(以下、③/④につづく)
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2017
09.26

『菜根譚』に触れる ①/④

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 テレビの視聴(NHK Eテレ「心の時代」)を通して、『菜根譚(さいこんたん)』に触れる機会がありました。出演された多川俊英(たがわしゅんえい)氏(奈良・興福寺貫首)が同書を解説した番組の中でした。
 私事ではありますが、『菜根譚』については、10数年ほど前に、加藤咄堂(かとうとつどう)著「菜根譚を読む」を購読していたのですが、そのときはあまり共感的に受け止めることができず、一度読んだきりで本棚の片隅に追いやっていた一冊でした。恥ずかしながら、当時の私には、この書物の価値を見抜く力がなかったのだと思います。そんな経緯から今回、多川氏のお話を聞くことで、実に多くのことを学ぶことができ有意義でした。
 『菜根譚』は、今から約400年ほど前、中国の宋代に洪自誠(こうじせい)という人物が著した書物です。日本へは江戸時代の後期に刊行されたといいます。
 署名の『菜根譚』ですが、これには次のような意味があるようです。『菜根譚』の「菜」は野菜の葉、「根」は野菜の根を意味するものですが、この場合の野菜も大根や蕪など、粗末で淡泊なものが想定されているようです。ちなみに「譚」には、話という意味があるようですから、全体としては、大根や蕪などの葉や根といった粗末な食べ物に倣い、華やかさを避け、淡泊で質実な生き方をするための訓話ということになるのでしょうか。ちなみに『菜根譚』には、前編225話、後編134話、合計359話が収められているようです。
 その内容は、君子としての在り方、身の処し方を記したものとされます。しかし、君子といっても、決して高い身分の人ということではありません。古の中国では、道徳的に人間を比較するとき、君子と小人という言い方をしたようです。道徳的に値打ちの高い人が君子、つまり立派な人というわけです。
 したがって『菜根譚』は、日常生活の中で、私たちがどのような生き方をしていくことが道徳的に価値が高いかを著した書物ということができるかと思います。
 多川氏の解説の中で、私が特に興味を引かれたことがありました。それは『菜根譚』が東洋の思想を集約した聖典であるということでした。つまり、『菜根譚』は、儒教、道教、仏教の思想をベースにして編まれた書物であるということです。この点について、多川氏から次のような見解が示されました。
 ―儒教は、生きていく上で、人とのつきあいの仕方、社会の中での人間の在り方はどうあるべきかを教えたものであり、道教は、大宇宙、大自然の中で人間はどうあるべきかを教えたものである。そして、仏教は、大自然の中、大宇宙の中で社会を構成している人間の心はどうあるべきかを教えたものだが、それらのエッセンスを同時に学べるのが『菜根譚』である―。
 たいへん興味深く、明快な見識だと受け止めました。(以下、②/④につづく)
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