2017
08.05

心とは何か?②/⑤

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 では、『般若心経』が、心は「無い」と述べていることをどう理解すればよいのでしょうか。以下は、私見です。
  西村恵信氏(禅文化研究所所長・花園大学名誉教授)は、その著書『坐る』の中で次のように述べています。
 あえて言うならば、心というものは、肉体に開いている六個の窓、つまり眼・耳・鼻・舌・身・意という六つの感覚器官(六根)が、色・声・香・味・触・法(六境)という対象と(出会って)「縁」を結ぶことによって起こる、一瞬一瞬の直接経験であります。
 私たちは、ときとして心が躍ったり、心が弾んだりすることがあります。また、逆に心がくじけたり、心が沈んだり、あるいは心が荒んだりすることもあります。しかし、いずれも一瞬にして起こる感情であり、時間が経てばやがては消えてしまいます。言うならば、そのときどきに生滅を繰り返す夢、幻のようなものが心です。
 『般若心経』で心が「無い」というのは、心に実体が「無い」ということを言ったものではないでしょうか。その経文の中に「無眼耳鼻舌身意」という文言もあるように、見ることも、聞くことも、嗅ぐことも、味わうことも、触れることもできないものが心の特質ではないかと思うのです。つまりは心に真の姿は「無い」ということです。私たちは、よくよくこのことを了解しておく必要があるのだろうと思うのです。
 ただ、こんなことを言うと、次のような反論があるかも知れません。先に例に挙げた料理やマフラー、バラの花には、実体があるではないか…、これらには形も、香りも、味も、肌触りもあるのだから、これこそが心の本体と言えるのではないか…と。
 しかし、よく考えなければなりません。これらのものも永遠にその姿、味、香り、肌触りなどを留めておくものではありません。時間の経過とともにその様相は変化し、いずれは消滅していきます。あらゆる有形物は、「諸行無常」という摂理から逃れることはできません。したがって、この場合にも実体と呼べるものは「無い」ことになります。これが釈迦の解き明かした冷徹な真理です。(以下、③/⑤につづく)
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2017
08.01

心とは何か?①/⑤

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  「21世紀は心の時代」と言われていますが、その実態に心許ないものを感じるのは私だけでしょうか。心の大切さ異論を挟む人は少ないと思いますが、ともするとそれが標榜だけに留まっているように見えるのはどうしてなのでしょう。私見ではありますが、それは心の持つ特性に由来するのではないかと思うのです。以下、その理由を述べてみたいと思います。
 「心が躍る」「心が弾む」「心が挫ける」「心が沈む」「心が洗われる」「心が通じる」「心が騒ぐ」「心が荒ぶ」など、心にかかわる慣用句を挙げれば枚挙にいとまはありません。また、「心苦しい」「心淋しい」など、わざわざ心をつけて表現する場合もあります。
 ただ、改まって「心とは何か?」と問われたら、どう答えるでしょうか?恐らくは、多くの人がその答えに窮するのではないでしょうか。コロコロ変わるからこころ(心)というとの説もあるように、とりつく島もないのが心の問題かと思います。
 『般若心経』に「受想行識」は『空』であるという文言があります。「受想行識」というのは精神活動のことです。『空』は「無」とほぼ同意ですから、『般若心経』によれば、精神活動、つまり心は「無い」ということになります。確かに、身体の中をどのように探しても、これが心だなどというものは見当たりません。
 慧可禅師(禅の法脈上で二祖とされる人物)は、達磨大師(禅の始祖)とのやり取りの中で、「心はどこにもない」と気づいたことで「悟り」を開いたとされます。また、慧能禅師(達磨から数えて六祖にあたる人物)は、「心を求めても、得ることは不可能である」と言っています。
 では、私たちがふだん心と思っているのは一体何なのでしょう?
 注目すべきことは、冒頭で挙げた「心が○○」「心が△△」という慣用句の主語がすべて「わたし」にあることです。それらは「わたし」を中心にして見たときに生まれた感情の動きです。したがって、そこには煩悩(貪・瞋・痴)が深く関与しています。私自身の実感ではありますが、日常生活の中で生起する心のほとんどは煩悩に起源を持つように思えます。その意味では、煩悩こそが心の正体と言えるのかも知れません。
 また、禅にあって「無い」とされる心ではありますが、モノや行動の中にそれが表れることがあります。例えば、手の込んだ料理を提供されたとき、それを賞味する人は作り手の心を感じるのではないでしょうか。愛しい人に心を込めてマフラーを編んだり、愛する人のために丹精込めてバラの花を育てる場合にも、受け取った側は、それらのモノに、送り主の熱い心を感じるはずです。
 また、心は言葉に表れることもあります。本ブログでよく紹介する『無財の七施』の中に「言辞施」がありますが、優しい言葉をかけられれば、その心は相手に通じると思います。優しい笑顔や柔らかい眼差しを送る「和顔施」や「眼施」もありますが、この場合にも送り主の心は相手に届くはずです。(以下、②/⑤につづく)

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2017
07.28

「光のない光」で見る!④/④

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 私が喩えた室内の塵というのは、人間の生理機能を成り立たせている様々な要素のことです。仏教では、古来よりこれを四大(地・水・火・風)と呼びましたが、現代にあっては、分子、原子、素粒子、そしてそれらの運動と位置を支配する未知なる力を含むものとでも言ったらよいのでしょうか。いわば「生の種」とも言えるものです。もちろん、それは同時に「死の種」でもあります。
 「生・死」の種は、ライトに照らされようと照らされまいと、変わることなくそこに存在しています。そこで、この「生・死」の種を、光がなくても見えるように、「二つ目の知性」の光で照射させてはどうかということです。
 具体的には、従来の「知性」を超える、さらに高い「知性」、言い換えるなら、自我(エゴ)に影響されない清浄無垢な「知性」によって、この世界を捉え直すということになるのでしょうか。そして、そのことを通して「生・死」の種は本来一つであることに気づき、この世界を「一元の世界」、つまり「生死一如」の世界として認識するということになるのだと思うのです。
 ただ、そこに至るには高いハードルがあることは言うまでもありません。それは、従来の「知性」の否定であり、同時に従来の自己(自我)の否定でもあります。また「二つ目の知性」の放つ光は、極めて特殊な光です。言うなれば「光のない光」です。その光で塵を見ることなど、常人には不可能です。
 しかし、仏教の教祖、釈迦をはじめ、達磨、慧能、馬祖、百丈、臨済、白隠など、古今東西のとりわけ禅僧の中には、その領域(境地)まで到達した思われる傑人が数多くあります。そのことに想いを致すだけで、単純な私などは、勇気づけられるのです。
 牛歩のようではあっても、「光のない光」で塵を見る努力を続けていれば いつか「これだ!」と了解できるときが来るかも知れません。あまりにも楽観的過ぎるのかも知れませんが、この先も、これら先人の言葉や行動に触れる機会を持ち続けたいと思っているところです。
 北原氏の「虹の話」と私の「光と塵」の喩えは、共に「生命の永遠性」をテーマにしたものです。互いに似て非なるところもありますが、この二つの話の中に「生・死」にまつわる問題を解く鍵を感じられた読者はあるでしょうか?ご意見をお待ちしています。(〆)
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次回は「心とは何か?」を掲載(5回配信)します。ぜひ、ご訪問ください。


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2017
07.24

「光のない光」で見る!③/④

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 このことをもう少し詳しく説明したいと思います。幼児の場合を考えてみます。生まれたばかりの幼児(嬰児)に「生」や「死」という意識や概念はあるでしょうか。とてもあるとは思えません。
 俗に「物心がつく」という諺がありますが、幼児にあって「生」と「死」の認識ができるようになるのは、通常、人の心の動きや世の中の様子などが理解できるようになってからだと聞きます。様々な体験の蓄積やそれに基づく精神活動が活発になるにしたがって、「生」や「死」が問題として意識されたり、認識されたりしてくるということなのでしょう。
 ところで、こんなふうに見てくると、私たちは「自縄自縛(じじょうじばく)」に陥っているようにも思えてきます。光に照らされているときも、照らされていないときも、室内に浮遊する塵は何一つ変化していません。したがって、そこには「生」もなければ「死」もありません。これも『般若心経』で詠まれる、いわゆる「不生不滅」の状態です。
 ところが、「生」も「死」も精神活動を通して作り上げられる概念であり、それ自体に実体はありません。しかも、概念化のプロセスでは「自我(エゴ)」の働きが深く関与するため、私たち一人一人の死生観は、より複雑なものになります。
 結局、私たちは、自分の頭の中で作り上げた「生」や「死」によって、自らを縛り、悩み、苦しんでいるということになります。これが「自縄自縛」の状態です。自分の作った縄で自らを縛り、自由がきかない状態に陥っているのに、それに気づいていないということです。
 ただ、だからといって生まれたばかりの幼児(嬰児)や動物や植物の真似をしようと言うのではありません。私たちには高い「知性」があります。それを放棄したり、無視してしまっては人間生活を営むことはできません。そこで、提案です。
(以下、④/④につづく)

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2017
07.20

「光のない光」で見る!②/④

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 北原氏の話を聴いた後、私にも一つのアイデアが思い浮かびました。それは、暗い部屋の中でライトを点灯したときに起きる現象でした。
 暗い部屋の中で、強力な光を放つ懐中電灯のスイッチを入れた場合を思い浮かべてください。そこには、室内に浮遊する塵の姿が光に照射され見えるはずです.
当然のことながらスイッチを切れば塵は見えなくなります。
 通常、室内に浮遊している塵は、私たちの目には見えません。私たちが普段それを認識できるのは、雑巾や箒、掃除機などを使って掃除をしたときくらいでしょう。集められた塵の姿を目の当たりにし、ようやくそれが室内に浮遊していたことに気づくのだと思います。しかし、暗い部屋の中では、懐中電灯が強い光を放った途端、その光が及ぶ空間にだけ無数の塵が浮遊しているのが分かります。
 これを「生・死」の問題に当てはめて考えてみます。この場合に懐中電灯の光とは何でしょう?私は、それは人間の「知性」ではないかと思うのです。その「知性」という光に照らされ、塵が見える状態が「生」という概念ではないかと思うのです。つまり、「生」というのは、私たちの精神活動の産物であるということです。
 荒唐無稽な喩えであり、この先を読み進むことを躊躇される読者があるかも知れませんが、しばらくお付き合いいただければ幸いです。
 この喩えの中で大切なことは、次のことではないでしょうか。暗闇の中、私たちは懐中電灯の光を得て、塵の存在を知ることになります。ところが、懐中電灯の電池の能力には限界があります。電圧の低下に伴い、懐中電灯は、次第に光量を弱め、やがて光を失います。そして、その結果、照射されていた塵も見えなくなり、再び暗闇の世界となります。
 ただ、塵は見えなくなっても、なくなったわけではありません。光に照らされている間も、また照らされる前も後も、変わることなく室内に浮遊しています。密閉された室内を想定するなら、その中にある塵は増えもしなければ減りもしません。『般若心経』で詠まれる「不増不減」の状態です。
 つまり、塵は私たちが懐中電灯の光を照射したときにだけ、たまたま目に映るのであり、「生・死」が問題になるのは、その光があるときだけということです。したがって、その光がなければ、「生」も「死」もないことになります。(③/④につづく)

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