2018
03.06

二人のイリーサ R ②/④

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するとニコニコ笑っていた男が言いました。
 「そいつは偽物だ。さっさと外へ放り出せ!」 
それを聞いた、町の人々は、イリーサを門の外へ放り出してしまいました。 
「ああ、何ということだ。本物のわしが、偽物に追い出されるとは…。」イリーサは、あまりのショックで、そのまま気を失って倒れてしまいました。  
 気がつくと、イリーサは、ベッドの中でした。心配そうに妻がのぞき込んでいました。
 イリーサは、聞きました。
 「わしは、どうしてここにいるのだ?蔵の宝物はどうなった?」 
 「ええ、あなたが、みんなにあげてしまえとおっしゃったので、その通りにしました。町の人たちは、みんなとても喜んでいます。」
 「ああ、やっぱり。わしは、もう、おしまいだ…。ところで、わしとそっくりの男はどうした?」
イリーサが、そう尋ねると、妻は、意外そうな顔をして答えました。
 「そっくりの男ですって?そんな男は知りませんよ。」
 「知らない?その男が町の人たちに、宝物をあげたんだぞ。」
 驚いたイリーサは、声を荒らげました。しかし、妻は、落ち着いた様子で言葉を続けました。
 「いいえ、あなたですよ。あなた以外に誰もいません。…いいことをなさいましたね。あなたは、今では、すっかり町の人気者です。あなたの中にも、わかちあう心があったのですね。子どもたちも、とても喜んでいます。」
 イリーサは、何がなんだか分からなくなりました。
 でも、それからしばらくして、心が落ち着いてくると
 (あの男は、ひょっとしたら、本当の自分だったのでは)
と思えてきました。そして、何だか気持ちが「すーっ」と楽になって、心が温かくなってくるのでした。

  二人のイリーサの「むさぼる心」と「わかちあう心」、このような二つの心は、私たちは誰でも持っている心だと思います。果たして、どちらが本当の自分の心なのでしょうか?前者でしょうか…?後者でしょうか…?それとも…?
 ところが、「禅」では、「どちらが本当の自分か?」などという問いそのものが意味を持たないようです。(以下、③ /④につづく)
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2018
03.02

二人のイリーサ R ①/④

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 いつもの子ども向けの「仏教説話」の中から、インドに残されているという話を紹介します。
 ある町に、イリーサという大金持ちの男がいました。御殿のような大きな家に住み、蔵には金や銀や宝石がびっしりと入っていました。でもイリーサは、いつも貧しい身なりをして、食べ物も粗末なものを少しだけ食べ、着るものも古びて、よれよれになったものを着ていました。ひどいけちで、ものがあり余っていても、人に与えるどころか、自分が使うことも惜しくてたまらないのです。だからイリーサは、妻や子どもからも、そして、町の人からも嫌われていました。
 ある日のことです。イリーサが家に帰ってくると、家の中がざわざわしています。ふくろを担いだ町の人たちが、イリーサの家を出たり入ったりしているのです。何事が起こったのかと中に入ってみると、蔵という蔵は、扉が開いていて、人々が金や銀や宝石などを、ふくろに詰めて持ち帰ろうとしているではありませんか。イリーサは、かっとして、大声で怒鳴りました。
 「こら、おまえたち、何をしているのだ!わしの大事な宝物をどうするというのだ!このどろぼうめ。返せ!返せ!」
 そして、あわてて、ふくろを奪い返しにかかりました。
 するとその時、家の中から声がしました。
 「みんな、かまわん。かまわん。好きなだけ持って行け。わしは、今まで、けちけちとお金や宝をためてきたが、もう飽きた。それに、けちだということでみんなに嫌われるのが嫌になった。好きなだけ持って行け。早く持って行け。」
 「何だと、おまえはいったい誰だ!」 
 イリーサが怒鳴りました。すると家の中から男が出てきました。 
 「わしか、わしは、この家の主人のイリーサだ。」 
 それは、イリーサと顔も姿も声もすっかり同じ男でした。
 イリーサは、驚くやら、あきれるやらで、いっそう大きな声で怒鳴りました。
 「何を偽物め。わしがこの家の主人のイリーサだ。だれの許しを得て、こんなことをしているのだ!」
 「何、わしが偽物だって?おまえこそ偽物ではないか。」 
男は、ニコニコ笑って言いました。
 人々は、ぽかんとして、見比べました。でも、二人は、どこからどこまで、すっかり同じで、どちらがどちらかは、全く見分けがつきません。
(以下、②/④につづく)
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2018
02.18

仏像を焼く ④/④

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 「仏」に形はありません。また、「仏」は姿を留めません。「丹霞焼仏」の逸話は、仏像などという妄念・妄想の産物に手を合わせる暇があったら、自らを含めた森羅万象が「仏」である真実に目を向け、そのことを大切に保っていきなさい…、その先に「悟り」があるのだから…。こんなメッセージを伝えようとしていたのではないでしょうか。

 ところで蛇足ですが、この話を聞いて次のような疑問を持たれる読者があるかも知れません。すなわち、これまでの理屈に倣うなら、木片と言えども「仏」であるわけだから、暖をとるためとはいえ、それを焼くことは、あまりにも身勝手ではないかと。こう問われたら、丹霞禅師は、果たしてどのように答えるのでしょうか?
 以下、禅師からお叱りを受けるのを覚悟で、代わりに私が答えるとしたら、次のようになるかと思います。
 「木片は、我が身を焼くことで見事に私を救済している。これこそが『仏』としての本分ではではないか…」と。
 あまりにも屁理屈が過ぎるのも知れません。笑い話として読み流してくださって結構です
 いずれにせよ、「丹霞焼仏」の逸話に倣うなら、私たちが仏像に手を合わせることに全く無駄なことになります。それどころか、法の真実に背き、罪を犯すことにもなります。いえ、そもそも仏像など必要ないことになります。
 とは言え、寺院を訪れた際、ご本尊を前に合掌・礼拝するのは、私たちの極自然な反応だと思います。このようなとき、私たちは、仏像、そして「仏」をどのように受け止めればよいのでしょうか?

 ちなみに、我が家の菩提寺は禅宗(臨済宗)です。本堂には釈迦如来が安置されています。しかし、菩提寺を訪れたときは、迷わず合掌・礼拝します。そんなときには、いつも次のように考えることにしています。
 ―私たちがご本尊に向かって手を合わせるとき、ご本尊も私たちに手を合わされ、「あなたたちが『仏』ですよ」と説いておられる、と―。
 あまりにも都合のいい解釈でしょうか。読者なら、どのように考えられるでしょうか。(〆)

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2018
02.14

仏像を焼く ③/④

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  石それ自体に何の罪もなければご利益もありません。ところがそこに「仏」の絵を画いた瞬間から、私たちの意識や行動は変わってきます。その上に坐ったり寝転んだりすることなど、幼気なこどもでもなければ、とてもできないだろうと思います。信心深い仏教徒なら、合掌したり、礼拝したりするかも知れません。
 しかし、それらは私たちの妄念・妄想から生じる反応に過ぎません。石の上に画かれた「仏」に尊ぶべきものもなければ、畏れるべきものもありません。ただ私たちの心がそうさせているだけです。木で作られた仏像は単に木片に過ぎません。したがって、その木片に「仏」という妄念・妄想を抱くことなど、もっての外であるというわけです。その意味では、禅の思考は、極めて現実的です。

 しかし、私見ではありますが、この逸話は、単に妄念・妄想を否定するためのものではないと思うのです。焼かれた木像が仮にネコやネズミを模したものだったとしたら、何の問題もなかったのではないでしょうか。やはり、それが「仏」の姿をしていたことに問題があるのだろうと思います。
 仏教にあって、「仏」には特別な意味があります。それを特徴づける根本思想が「一切衆生悉有仏性いっさいしゅじょうしつうぶっしょうです。全ての生きとし生けるものには仏の性質あるという、仏教固有の世界観です。
 『般若心経』で読まれる「空即是色」も同様の世界観を述べたものだと思います。「空(目に見えないもの)」、つまりは「仏」が「色(目に見えるもの)」を造り出しているということです。言い換えるなら、森羅万象は、「仏」が現成した姿であり、それ以外のものはないということです。
 したがって、この論理に立つなら、この世の全てのものが「仏」という概念に内包されます。そこにはいかなる区別もなく、全ては一つです。したがって、そこでは「仏」という概念も言葉も不要になります。そうなれば「仏」だと言ってそれを特別扱いし、崇めたり、畏れたりすることは全く無意味なことになります。他方、カエルやミミズ、ハエやカなど、一般に下等とされるものたちを蔑むことも愚かなことになります。 
 それに、「仏」に実体はありません。見ることも、聞くことも、嗅ぐことも、味わうことも、触れることもできないのが「仏」です。妄念というのは、実体がないのにあるように勘違いして起こる意識であり、妄想とはそれをもとに膨らむ根拠のない思考のことです。その意味では、私たちが抱く妄念・妄想の最たるものが「仏」という概念とも言えます。禅宗にあっては、その真実を冷徹に見極めているのだと思います。(以下、④/④につづく)

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2018
02.10

仏像を焼く ②/④

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 これまでも紹介してきましたが、禅には「金仏(こんぶつ)、炉を渡らず、木仏(きぶつ)、火を渡らず 泥仏(でいぶつ)、水を渡らず、真仏(しんぶつ)、奧裏に坐す」という言葉が残されています。金属で造った鋳物の仏像は、炉の上を渡ったら熔けてしまう…。木で造った仏像は、火の上を通ったら燃えてしまう…。泥をこねて造った塑像の仏像は、水の中に入ったら熔けてしまう…。本当の仏は、それぞれの心の中に坐っているのだから、その仏を己の中に見出すことが大切である…。このような意味になるようです。
 確かに、このような考え方に立てば、自分の外にわざわざ仏像を置き、それを崇拝するなど必要などないことになります。禅宗の寺院で特定の仏像が置かれることがないのは、このような仏像、あるいは「仏」そのものに対する特有の思想があるからだと思われます。その深意は、いったいどこにあるのでしょうか。
 丹霞禅師にまつわる逸話には次のような後日談があります。
  ある人が真覚大師に尋ねた。
「木仏を焼いたのは丹霞なのに、僧の方に何の罪があったのでしょう?」
 すると大師は次のように言った。
「僧には仏しか見えていなかった」
人は、再度、大師に尋ねた。
「では丹霞はどうだったのでしょう?」
大師は答えた。
「丹霞は、木を焚いたのだ」

 意味深長なやり取りではあり、軽々な解釈は慎まなければならないと思いますが、僧の罪が「仏しか見えていなかった」という件の中に鍵があるように思います。丹霞禅師にとって単なる「木」であったものを「仏」としたことにどのような罪があると言うのでしょうか。
 この論旨を明らかにするために、「『禅の語録』導読」では、『二入四行論(にゅうしぎょうろん)』にある一段が紹介されていました。次がその意訳です。
 法には大きさも姿かたちも価値の上下も無い。たとえば家の庭に大きな石があるとする。その上で寝ようが坐ろうが好き放題だ。驚きもしなければ、恐れもしない。
 ところがその石の上に仏の絵を描いたとする。すると心はそこに「仏」という観念を造り出して、たちまち罰があたるのが怖くなって、その上に坐れなくなってしまう。石はそのままなのに、汝の心のためにそうなってしまうのである。心とは何のようなものか?
 そう、すべては汝の心意識の筆が画き出し、それに対して自分で勝手に慌てたり、怖がったりしているだけのものである。

 ここで言いたいのは、次のようなことなのだと思います。(以下、③/④につづく)

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