2017
04.15

人を木に変える ①/④

Category: 未分類
middle_1264394835.jpg [隠元禅師]
 日本黄檗宗(おうばくしゅう)の宗祖であり、宇治・万福寺(まんぷくじ)の開山である隠元禅師(いんげんぜんじ)京都・妙心寺にまつわる興味深い逸話が残されています。
 隠元禅師(以下、隠元とします)は、江戸時代の初期、招かれて明国から日本に渡来します。禅の本場から名僧が渡来したというので、禅宗の僧たちの間には隠元ブームが巻き起こり、それは幕府のもとにも達します。やがて隠元は、将軍徳川家綱の帰依を受け、宇治に黄檗山万福寺を開きます。
 隠元が京都に来たときのことです。隠元は、禅宗各派の本山を訪ね、それぞれの開山禅師(その寺の最初の住職)の語録(「悟り」の境地を表したを言葉)の開示を求めます。
 妙心寺もその本山の一つでした。禅宗に限らず、仏教史に名高い高僧たちは、語録や墨跡(ぼくせき)(自らが記した文字)、肖像画を残すことが多いものです。とりわけ特定の本尊を持たない禅宗の場合は、それらが大切され、崇拝の対象になります。
 ところが、妙心寺の開山である関山慧玄(かんざんえげん)禅師(以下、関山とします)には語録がありません。それには、特異な理由がありました。
 関山は、自分の足跡を残さなかった稀な禅僧の一人でした。正確には、足跡を残すことを徹底的に排除したというのが本当のようです。禅師は、生前から弟子たちに自らの足跡を後世に残さぬよう、厳しく言い渡していたのです。
 しかし、事情はどうあれ、語録のないような者がどうして一派の開祖になれるのかと突っ込まれたら、妙心寺一派は、隠元に抹殺され、場合によっては乗っ取られてしまうところでもありました。
 そのとき住職をしていたのは、愚堂禅師(ぐどうぜんじ)でした。愚堂禅師は隠元に答えました。「関山国師には語録はありませんが、たった一つ言葉が残っています。『庭前の柏樹子の話に賊機あり』(庭前柏樹子という話の中には大泥棒のような恐ろしい根性)とおっしゃっています」と。
 これはこれでたいへん不思議なやり取りではありますが、この話について関山の見解に触れた隠元は感嘆、平伏し、「この一語は、各本山の語録に勝ること百千万倍なり」と言って、関山の墓所を三拝して、妙心寺を下がったというです。
 ちなみに、これは禅問答集『無門関』の第37則がもとになっています。次のような短いやり取りです。
 ある僧が趙州禅師(唐代に活躍した高僧、以下、趙州とします)に「達磨大師がはるばるインドから中国まで来られたその意図はどこにあったのでしょうか〈如何なるか是、祖始西来意(いかなるかこれ そしせいらいのい)〉」と尋ねると、趙州は「庭先にある柏樹子だ〈庭前の柏樹子(ていぜんのはくじゅし)〉」と答えたと。 
 趙州と僧とのやり取り、そして関山の残した一語に対する隠元の行動、いずれもたいへん不思議な話ではあります。いったい、どのように理解したらよいのでしょうか。

(以下、②/④につづく)

56-1.jpg
※クリックすると拡大して見られます。
Comment:0  Trackback:0
2017
04.11

ギャラー55

Category: 未分類
◎これまで掲載した水をテーマにした写真をギャラリー55」としてまとめました。 

 
水は百面相 どれも水の顔には違いない 
 しかし どれも本当の顔ではない 
 心も同じこと
 
今回の写真は、1・2は安城市(丈山苑)、3~8は豊田市(阿知波池)で撮影したものです
1 
55-1.jpg


55-2.jpg 

55-3.jpg 

55-4.jpg 

55-5.jpg 

55-6.jpg 

55-7.jpg 

55-8.jpg 
次回は「人を木に変える」を掲載(4回配信)します。ぜひ、ご訪問ください。
Comment:0  Trackback:0
2017
04.07

アドラーの心理学から⑤/⑤

Category: 未分類

 
 4
 アドラーは、他者への貢献感を持つことが自己受容につながると述べています。しかし、それは他者への揺るぎない信頼が前提になります。信頼とは無条件で他者を信じることです。性善説に立つことと言えるのかも知れません。ただ、そのことに高ハードルがあることは言うまでもありません。その点についてアドラーの真意はどこにあるのでしょう。
 テキストの冒頭で次のような言葉が紹介されていました。


 自分自身の幸福と人類の幸福のためにもっとも貢献するのは、「共同体感覚」である。それゆえに、人生の問題へのすべての答えはこの結びつきを考慮に入れなければならない。それはわれわれが他者と結びついて生きているということ、もし一人であれば滅びるであろうという事実に照らした答えでなければならない。


 アドラーの言う「他者と結びついて生きている、もし一人であれば滅びる…」という言葉が胸に迫ります。これは、仏教の世界観にも通底します。
 私たちは、相対差別の世界に生きています。しかし、同時に絶対平等の世界にも生きています。私たちはそのことにもっと目を向けなければならないのだと思います。アドラーがイメージしていたことと、仏教が説く「自他一如」という絶対的な真理に目覚めることとはほぼ重なるのではないでしょうか。
 アドラーは “人間は闘わないために何をすべきか”を深く考えたと言います。相対世界の中では、人間は闘うことを宿命づけられているとも言えます。しかし、だからこそ、それを認めた上で、闘わないために何をすべきかを考えなければならないのだと思います。そのときポイントとなるのが「他者と結びついて生きている、一人であれば滅びる…」という不変・不動の事実への気づきなのだと思うのです。
                                                   image.jpg

 以上、アドラー心理学と仏教思想との接点について私見を述べてきました。勝手な推測ではありますが、両者の間に接点が多いのは、アドラーが心理学者であると同時に、哲学者としての視座も有していたからではないかと思います。
  ただ、冒頭でもお断りしたように、アドラー心理学についての私自身の知見は、テレビテキストに記載された範囲内に留まるものです。また、今回取り上げた内容もその中のごく一部分のみです。
 テキストによれば、この他にもアドラーは、「あらゆる対人関係は、縦でなく横の関係であり、人と人とは対等であるとしたこと」「人間タイプで分類することを否定したこと」「ライフスタイル(世界、人生、自分についての意味づけ)を形成する際の決定要因が、本人の決断にあること」など、仏教思想に通じる興味深い考え方を示しています。その意味では、今回の内容がいかに短絡、浅薄で、不十分なものであるかはよく承知しています。どのような批評も批判も甘んじて受けるつもりです。
 ただ、近代において科学として成立してきた心理学と約2500年前に起源をもつ仏教の思想との間に、幾つかの接点を見出すことができたことは、たいへん興味深く、大きな収穫でした。(〆)

55-8.jpg 
※クリックすると拡大して見られます。



Comment:0  Trackback:0
2017
04.03

アドラーの心理学から④/⑤

Category: 未分類
social-interest-1024x768.jpg 

 アドラーの言葉の中に「自分自身の幸福と人類の幸福のためにもっとも貢献するのは共同体感覚である」という言葉がありました。先にも記したように「共同体感覚」とは、「他の人の目で見て、他の人の耳で聞き、他の人の心で感じること」です。
 だとするなら、この理論は「利他即自利」あるいは「自他利行」という大乗仏教の根本理念にそっくり重なります。自分のことは後回しにし、相手が喜ぶようにしようとすることが、結局は自分自身のためになるという考え方です。「情けは人のためならず」という諺もこれに通じるものでしょう。他者を「仲間」と見て、他者に貢献することで自分の価値を確認でき、自己受容できるようになるというアドラーの主張もそのことを述べたものだと思われます。
 また、「われわれは他者と結びついて生きている。人間は、個人としては弱く限界があるので、一人では自分の目標を達成することができない」 という言葉からは、「諸法無我」という言葉が連想されます。「諸法無我」は、一切の現象や存在には「我」と呼べるような実体がないということですが、それはあらゆる事物が、無限の関係性の中にあるということでもあります。つまり、人間を含む森羅万象が互いに助け・助けられ、支え・支えられという関係の中にあり、固定的な実体はないということです。
 「優越性の追求」においてアドラーが求める、他者を競争すべき「敵」から、協力して生きる「仲間」へと意識転換するときに役立つのは、この「諸法無我」に類する思想と言えるのではないでしょうか。
 さらに、アドラーは共同体という概念について「共同体とは、(中略)、過去、現在、未来の全ての人類、さらには生きているものも、生きていないものも含めた、この宇宙全体を指している」と述べています。
 その言葉に「自他一如」あるいは「万物と我と一体」「天地と我と同根」という仏教思想を思い起こすのは私だけはないと思います。
 「山川国土悉皆成仏」、これが釈迦の悟りだったとされます。釈迦は、長年にわたる苦行の末、一切の生きとし生けるものに仏が宿っていることを覚知しました。仏であるという一点において全てのものが平等であり、一つであるということです。全てを「一人称」で捉える世界観です。いわゆる「自他一如」です。「利他即自利」あるいは「自他利行」など大乗仏教で尊ばれる実践行は、この理念から派生してくるものです。(以下、⑤/⑤につづく)

55-7.jpg 
※クリックすると拡大して見られます。


Comment:0  Trackback:0
2017
03.30

アドラーの心理学から③/⑤

Category: 未分類

ブッダガヤの大菩提寺(マハーボーディー寺院)-600x400 [マハー・ボーディ寺院]
 では「共同体感覚」というときの共同体というのは何のことを指すのでしょう。アドラーの言葉です。
 共同体とは、さしあたって自分が所属する家族、学校、職場、社会、国家、人類という全てであり、過去、現在、未来の全ての人類、さらには生きているものも、生きていないものも含めた、この宇宙全体を指している。
 その上でアドラーは、「人生の意味」は全体(共同体)、あるいは他者への関心・協力であるとし、他者への関心を持てる人だけが、他者に貢献し、貢献感を持つことができると考えました。

 以上、アドラーの提唱した心理学の理論についてその概略を紹介してきましたが、そこで仏教との接点です。
 私は仏教で説かれるいくつかの言葉が頭を過ぎりました。「利他即自利」「自他利行」「諸法無我」「自他一如」「万物と我と一体」「天地と我と同根」などがそれです。どの言葉もこれまで本ブログで紹介してきたものばかりですが、いずれも大乗仏教の根本理念を表すものであることに共通点があります。
 仏教には大きく分けて、大乗仏教と小乗仏教があります。大乗には「大きい、優れた乗り物」という意味があり、これと対になる小乗には、「小さい、劣った乗り物」という意味があります(ただし小乗仏教という言い方は、大乗を自称する仏教徒が、従来の仏教に一方的に投げつけた蔑称で、正しくは上座部仏教と呼ぶべきだとされます)。
 小乗仏教は、出家中心の仏教で、修行と勉学に精励し、自己の解脱(悟りに至ること)が優先されます。東南アジアに伝わる仏教は小乗仏教の流れに属し、南伝仏教とも呼ばれます。
 一方、大乗仏教というのは、小乗仏教がひたすら自己の解脱を求めた仏教であったのに対し、自己の解脱と併せて衆生(人々)を救うべきであるという立場をとります。東アジアに伝わった仏教はこの流れを受け継ぐもので、北伝仏教とも呼ばれます。言うまでもなく、日本に伝わった仏教は大乗仏教の流れを汲むものです。(以下、④/⑤につづく)
55-6.jpg
※クリックすると拡大して見られます。



Comment:0  Trackback:0
back-to-top