2017
06.06

ミクロの世界と一元論 ①/②

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無題
 今回は、いつもとは違った切り口から話を進めたいと思います。
 以前から購読している月刊誌の中に心から離れない1冊があります(月刊MOKU vol.221)。「宇宙のシナリオ」と題した特集号なのですが、その中に志村史夫氏(静岡理工科大学教授)の「対立するものは相補的である」という話が掲載されていました。根っからの文系人間である私にとって、宇宙の話やそれにまつわる相対性理論や量子論の話は極めて難解で、いくら読み返しても越えられないハードルがあるのですが、好奇心の衰えない私には、今でも興味の尽きないテーマなのです。
 志村氏によると、科学の分野には過去に大きな転換期が二つあったといいます。その一つが、地動説を唱えたコペルニクスや惑星の運動法則を発見したケプラー、近代科学の父とされるガリレオやニュートン等による「第一次科学革命」、もう一つが相対性理論や量子論を構築したアインシュタインやボーア、ハイゼンベルク等による「第二次科学革命」であるとのことでした。
 難解な話ばかりなのですが、それでも「第二次科学革命」にかかわる話の中に、興味をそそられるものがありました。その中の一つが「ミクロ世界と観察者の間に立ちはだかる『h』の壁」という話でした。私のような素人でも理解できるように編集されているため、その概要は何とか理解できました。
 言うまでもなく、自然科学や物理学というのは、その対象が客観的な実在であることが条件となります。「観察」という行為は、あくまでもそれを前提として行われるものであり、人間の心や人間の意志によって行われる「観察」が、その対象に影響を与えるようなことがあったとしたら、それは科学とは呼べないでしょう。ここに「心」と「物」を分けて捉える二元論的考え方の基本があります。人の「心」と実在する「物」とは別物だということです。
 ところがミクロの世界にあっては、「観察」という行為がそのれる対象に影響を及ぼすことあるというのです。つまり、観察するために光(エネルギー)を当てると、その途端に対象が動いてしまい、観察に支障が生じてしまうというのです。影響を与えないように光のエネルギーを小さくすればよいと考えられるかも知れませんが、そうすると今度は暗くなってしまい、対象の位置がはっきり分からなくなります。
 そこで、およその見当をつけて観察に臨むのだそうですが、そうすることで結局は、避け難く不確定な部分が出てきてしまうというわけです。それを「不確定性原理」と呼ぶのだそうです。ドイツ人の理論物理学者ハイゼンベルクは、これを次のように数式化したとありました。参考までに記しておきます。
 ΔX×ΔP≧h (ΔXは位置の不確かさ、ΔPは光の影響で動いた運動量の不確かさ、hはその積で一定値以下にはならない)
 平易に言うなら、観察する対象が小さくなればなるほど、それをはっきり見ようとして光を当てれば対象は動いてしまうし、動かさないようにしようと思えば、はっきり見えなくなってしまうということなのでしょう。つまり、ミクロの世界にあっては、観察者が人間である以上、どうしても避けて通れない根源的な不確定性があるということです。これを「hの壁」というのだそうです。
 志村氏は、この事実を紹介した上で、次のように述べています。
 観察という行為、つまり人間の心が対象に影響を与えてしまっていると言ってもいいでしょう。いままで人間の心と観察されるものとは別物だとして二元論で捉えていたけれど、ミクロの世界が拓けたことで、科学の世界にも人間の心を含まざるを得なくなった。これが第二次科学革命における自然観の大きな変化の一つです。
(以下、②/④につづく)
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2017
05.29

ギャラー56

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◎これまで掲載した水をテーマにした写真をギャラリー56」としてまとめました。 

 
水は百面相 どれも水の顔には違いない 
 しかし どれも本当の顔ではない 
 心も同じこと
 
今回の写真は、1~3は豊田市(阿知波池)で、4~6は岐阜県(養老の滝)7と8は、豊明市(星名池)で撮影したものです
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56-5 養老の滝 

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次回は「ミクロの世界と一元論」を掲載(4回配信)します。ぜひ、ご訪問ください。

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2017
05.25

「恥ずかしい話」の考察 ④/④

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 一人のきこりが山に入って、あちらこちらで木を切っていると、そこへ見馴れない動物が出てきました。珍しい動物だと思ったきこりは、その動物に声をかけました。
「お前はいったい何というものだ?」
すると動物は次のように答えました。
「私は、サトリというものだ。私は人間の考えていることが手に取るように分かるという特技がある。」
それを聞いたきこりは、にわかに色めき立ちました。そして、サトリを生け捕りにして売り払い、大金を得ようと考え始めました。するとサトリは言いました。
「お前は、私を捕らえて売り飛ばそうとしているな。」
自分の考えていることを見透かされたきこりはとても驚きました。サトリの言うことは正しかったのです。
 そこできこりは、忘れたようなふりをして後ろに回り、気づかれる前に捕らえてやろう考えました。するとサトリは言いました。
「お前は、忘れたようなふりをして、後ろから私を捕まえようとしているな。そうはいかないぞ。」
 それを聞いたきこりはだんだん腹が立ってきました。するとサトリは言いました。
「お前は、私が捕まえられなくて怒っているな。」
 きこりはすっかり困ってしまいました。これではどんなことを考えてもサトリに覚られてしまい、捕まえることができません。
 そこで、きこりはサトリを捕らえることを諦めることにしました。そして、再び斧を手に木を切り始めました。
 するとどうしたことでしょう。斧を振り上げた途端、斧の柄から刃が抜け、空中高く飛び上がったかと思うと、遠くからその様子を眺めていたサトリの頭に当たり、サトリは目を回してしまったのです。
 こうして、きこりはサトリを生け捕りにすることができました。

 この話を読者はどのように受けとめられるでしょうか。「得たいと思わないと決心したときにこそ得ることができる」というたいへん含蓄のある教示ではあるのですが、凡人にはこれがたいへん難しいのだと思うのです。やはり鍵になるのは「無心」に徹するということでしょうか。(〆)
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2017
05.21

「恥ずかしい話」の考察 ③/④

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 仏教では、“煩悩の炎”を吹き消せば、心は鎮まり解放され、行動も自由になると説かれます。思えば、走行で生じる風圧やワイパーの動作に効果がないと気づかされたことが大きな転換点でした。大袈裟か知れませんが、そのとき私の“煩悩の炎”は、一時的に火力を弱めていたのかも知れません。
 もし、あのまま車を暴走させていたら、私は交通事故を起こしていたかも知れません。あるいはスピード違反で検挙されていたかも知れません。私にとって、これほどの不自由はありません。笑われるかも知れませんが、そのとき私は瞬間的に「悟り」の状態に入ったのかも知れません。
 “煩悩の炎”を吹き消すことは、我欲・我執を封印することとも言い換えられるかと思います。それは、自分の都合のいいようにしよう、自分の思い通りにしようという執着心から解放されることでもあります。その意味では、私は自由になったと言えるでしょう。そして、同時に虫も自由になったのです。
 結局は、虫からの「無情説法」を聴いたのだと思います。自分ではどうすることもできないことは、そのままにしておく(受け入れる)…、自分が変わらなければ、相手も変わらない(自分が変われば、相手も変わる)…、自分がつくった苦悩は、自分でしか解消できない…、これが虫からの教えだったと思います。
 “煩悩の炎”を吹き消し、我欲・我執を封印することを「悟り」と定義するなら、私はそのチャンスを虫から与えてもらったのです。改めて思い返すと、誠にありがたく、得難い出会いだったと思います。
 ただ、こんなふうに考えると「悟り」などという体験は、案外、思いがけない場面で得られるのではないかとも思えてきます。そこで最後に、仏教説話として伝わる面白い話を紹介したいと思います。「きこりとサトリ」と題した次のような話です。(以下、④/④につづく)
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2017
05.17

「恥ずかしい話」の考察 ② /④

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 まず、最初に虫に出会ったときの私の反応です。私は、とっさに邪魔なものだと感じました。運転するのに支障があるほどのことはなかったのですが、単に目障りだったのだと思います。
 しかし、今、冷静になって考えてみれば、虫を排除したいというのは私の身勝手な思いです。虫にしてみれば、私の車に止まることには何らかの意図や意味があったはずです。したがって、私から受けた仕打ちは極めて理不尽なものだったと思います。身の自由を奪われ、さぞや不愉快でもあったことでしょう。
 そして、車は赤信号に差しかかりました。このときの私には、自分の身勝手さへの気づきはまだありませんでした。頭の中は、小さな虫を思うがままにできないことへの悔しさが渦巻いていました。若気の至りとはいえ、まことにお恥ずかしい有り様です。
 ところが、まさに青天の霹靂でした。車の停止と同時に、虫は何事もなかったかのように、ひらひらと中天に飛び立っていったのです。
 「してやられた!」という思いはありました。しかし、その一方で、虫の姿に何か清々しいものも感じました。身の自由を得たものに対して無意識のうちに同化していたのかも知れません。そのときの不思議な感覚は今でも忘れられません。その後、しばらくの間、運転席から虫の姿を目で追っていたと記憶しています。

 ところで、仏教徒が認めなければならない三つの立場の一つに「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)があります(他の二つが「諸行無常」「諸法無我」)。「涅槃」というのは、サンスクリット語のニルバーナ漢訳したものです。燃えさかる炎を吹き消すという意味ですが、炎というのは言うまでもなく“煩悩の炎”のことです。したがって「涅槃寂静」というのは、あらゆる煩悩の炎を吹き消し、心が完全に鎮まった状態のことを述べたものです。いわゆる「悟り」の境地です。
 当初、私が虫に対してとった行動はまさに煩悩の為せる業だったのだと思います。虫を排除したいというのは私の我欲・我執に他なりません。虫の都合や立場などまっく念頭にありません。運転中に私が試みた愚行は、ことごとく虫の自由を奪うものでした。
 また、ここで忘れてはならないことは、それが私自身の心を縛るものでもあったということです。「~したい」「~しなければならない」「~するしかない」などの思いは、明らかに私の心を縛り、悩ませ、苦しめるものでもありました。それこそが“煩悩の炎”によってもたらされる負の心なのだろうと思います。(以下、③/④につづく)

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