2018
05.01

「ゼロ」にならない心 R ③/③

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 無文老師は、次のようにも述べています。
 心が無であるということは、何もないということではなく、客観の世界と一緒に動けるということであり、それが無であり、本当の悟りである。(奪人不奪境)
 「無心になる」というのは、我欲を棄て・我執を消し去ることです。勝手な推測ではありますが、「ゼロ」の人たちは「ゼロ」の状態に至ることで、我欲・我執から解放されたのではないでしょうか。そして、そこに自然な形で道徳的実践が生まれてきたのではないかと思うのです。
 引用文の中に「客観の世界と一緒に動く」という言葉がありますが、「客観の世界」というのは、この場合「新宿の街」であり、そこに落ちている「ゴミ」のことだと思います。言い換えるなら、Aさんが「ゼロ」の人たちと呼ぶ人たちは、そのとき「新宿の街」そして「ゴミ」と一つになっていたということです。その意味では、彼らは「悟り」の境地にあったと言えるのかも知れません。
 Aさんは、掃除をするホームレスの人たちの姿に接し、気迫や凄み、そして感動をも覚えたと話しています。私見ではありますが、それは、彼らの「純粋な人間性」に触れたことに起因する心の動きではないかと想像します。人間誰もが本来持っている「究極の主体性」とも言えるものです。具体的には、分別を超えた「智慧」であり、その「働き」のことでしょう。 
  もちろん掃除を続けるホームレスの人たちにそんな意識は微塵もないのだろうと思います。しかし、だからこそ尊いと思うのです。
 求める心が「ゼロ」と言っておきながら、掃除の後にありつける炊き出しを期待するのは矛盾しないかとの意見もあるかもしれません。
 しかし、先の男性の談話からも分かるように、彼らが行政の配慮で用意される食事より、清掃活動することの方に重きを置いていることは明白です。彼らにすれば、炊き出しの食事にありつくことなどは、「社会の中で役立ちたい」という「無心」に根ざした動機に比較すれば二義的なことなのだと思います。Aさんの感涙の源もこの一点にあるのだと想像するのです。
 当事者から遠く離れたところにあって、よくもそんなお気楽なことが言えたものだとのお叱りの声が聞こえてきそうです。
 読者からのご批正をお待ちしています。(〆) 

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2018
04.27

「ゼロ」にならない心 R ②/③

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 最初は(週3回)20人くらいから始めた町の掃除は、だんだん増えて、50人以上が参加するようにもなります。
 その中のある男性は、こんな話をします。  
「ゴミ拾いに参加しなくても、どこかで食事をもらうことはできるよ。役所の人たちも食事を用意してくれる。でもその整理券をもらうために並んだことはないんだ。だって、並んでいたら掃除ができなくなっちゃうからな。」 
 ホームレスの人たちは、お金がほしいと言っていない、家がほしいとも言っていない、食事がほしいとも言っていない。それなのに、いったいどうしてこんなに一所懸命に掃除をするのか?
 Aさんは次のように語っています。  
 「何がなくなったとしても人間は、『社会の中で役立ちたい』『他者のために役立つことをしたい』というと言う気持ちは『ゼロ』にならない。結局、自分だけのことじゃなくて、周りがどれだけ幸せになるかを考えていた方がいいんだろうな。」

 禅では、「無心になる」ことが追求されます。これは、我欲を棄て、我執を消し去ることが、一番良い人間形成の道であるという信念に基づいた考え方です。
 山田無文老師(昭和に活躍した臨済宗の禅僧)は、『六祖壇経(ろくそだんきょう)』という経典を解説した本の中で次のように述べています。
 そこに純粋な人間性が自覚されれば、道徳は自然に具わってくる。だから、我々は常にいかに無心になるかということを工夫さえしていればいいのだ。
 様々な事情から、家も仕事もお金も家族もなく「ゼロの人たち」と呼ばれるホームレスの人たちではあります。ところが、それらのものが「ゼロ」になっても「ゼロ」にならないものがある…。それが「社会の役に立ちたい」「あなたのために役に立つことをしたい」という一念である…。無文老師が言う「自然に具わってくる道徳」とは、このことではないでしょうか。
 もちろん、ホームレスの人たちの置かれている状況と禅の修行僧らが「修行」として取り組んでいる状況とは、本質的に異なります。修行僧らが、自ら決意し、選択してその状況の中にあるわけですが、ホームレスの人たちは、「様々な事情」により、やむなくその状況にあるのだと思います。
 しかし、私には「ゼロ」の状態にあるということと、禅で求められる「無心になる」ということが、どうしても重なって見えてしまうのです。(以下、③/③につづ
く)

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2018
04.23

「ゼロ」にならない心 R ①/③

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 これから紹介するのは、ある購読本に、東京の新宿で活動しているAさんの談話として掲載されていたものです。十数年ほど前の話ですので、現在とは状況が異なっているかもしれません。しかし、そのことを超えて、心打たれ、考えさせられるものがあるように思われ、敢えて紹介しようと思います。
  
Aさんは、ホームレスの人たちを世話しています。様々な事情から、家がない、仕事がない、お金がない、家族もない人たち。新宿だけで800人いるとも1000人いるとも言われ、20代、30代の人も増えているとのことでした。Aさんは、「ゼロの人たち」と言っています。
 Aさんは、10年ほど前、ホームレスの人たちのことを知りました。そして、このままではいけないと考え、炊き出しをはじめます。
 しかし、それを見た周囲の人たちは、Aさんに、「やめてほしい。」と迫ります。また、「甘やかすから、ホームレスの人がどんどん集まってくる。」「新宿はホームレスの街になってしまう。」などの言葉を投げつけます。
 しかし、Aさんは続けました。最初は20人くらいだったホームレスの人たちは、1年後には300人くらいに増えたと言います。
 そこで、Aさんはあることを思いつきます。ホームレスの人たちに「ゴミ拾い」をはじめようと呼びかけたのです。新宿の街に落ちているごみを拾うための掃除です。
 さて、ホームレスの人たちの反応はどのようだったのでしょう?食べ物がほしいから嫌々やるのか、それとも断るのか。
 ところが、ホームレスの人たちは、すごく喜んで掃除をするのだそうです。
 Aさんはこう言っています。
 「おっちゃんたちは、いつも食べ物を探しています。拾ったり、もらったり、食べられる物を探していないと生きていかれないのです。だから、食べていくということについて聞くと『つらい』と言います。でも、掃除をすることをすごく喜ぶんです。ただの掃除ボランティアじゃない気迫や凄みを感じます。その様子を目にすると、感動して涙があふれてきます。」(以下、②/③につづく)
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2018
04.19

鈴木大拙の思想 ④/④

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 ところで、先に神というのは、妄念・妄想の産物であるといいましたが、仏もこれと同じではないかと思われる読者があるかも知れません。そして「神がいない」のであれば「仏もいない」のではないかと詰問したくなるかも知れません。そこで、以下、私見を述べたいと思います。
 仏はいない。しかし、仏は充ち満ちている。これがその答えです。仏教特有の「空」と考え方です。腑に落ちないという声が聞こえてきそうですが、残念ながら、それ以外に言いようがありません。「有るようで無い」「無いようで有る」、これが仏です。
 旧約聖書における神と仏教における仏には、もう一つ大きな違いがあります。神と人間の間にあるのは上下関係(縦のつながり)ですが、仏と人間(正確には生きとし生ける物)との間にあるのは、あくまでも水平関係(横のつながり)です。つまり、すべての人間は絶対的な平等関係にあり、一人一人が自由で、完璧な存在であるということです。換言すればすべての人間が仏である」ということです。互いを肯定し合い、尊重し合っていこうとする高邁な精神は、ここから生まれてくるのだと思います。
 番組の最後の場面で、岡村氏から次のような言葉がありました。大拙の思想を端的に表すものとして心に残りました。要約して紹介します。


 大拙にとっては、宗教も宗派もない。人間は単に、「二本足で立っているもの」ということであり、大拙は、そのような人間の本来の働きを実感として持っていたのだと思う。(中略)私たちは、二つの次元が同時に動いている。その一つが「生きている」ということであり、その一つが「生かされている」ということである。そのことを忘れてはならないと思う。


 以上、テレビの視聴を通して印象に残った三つの場面について綴ってきましたが、最後に、昭和37年(大拙92歳)、NHKのテレビインタビューに出演したときの映像に残る大拙自身の言葉を紹介して結びにしたいと思います。「西洋人が禅に感じる魅力とは何だと思うか?」という問いに対する大拙の答えです。 


 今は何にでも束縛されてしまう。時間に束縛され、組織に束縛され、いろいろな点で束縛され、本当の自由の働きができない。人間は元来自由がなかったらもう人間ではないから、人間に帰ろうという動きがどこからか出てくると思う。それに対して、禅は最も適切な訓練であり、修行だということに気づいたのだろうと思う。
 東洋の自由の意味は、自ずからなる、自ずからに由るということ、ものに束縛が何もない、そのものになって、本体になって働くというのが自由だ。西洋のリバティ[liberty]やフリーダム[freedom]には、そういう意味はない。


 自由についての東洋と西洋の受け止め方の相違が、そのまま仏教(とりわけ禅)とキリスト教の教義の違いに反映しているという、たいへん興味深い指摘だと思います。
(〆)    
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次回は「ゼロにならない心 R」を掲載します。ぜひご訪問ください。 


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2018
04.15

鈴木大拙の思想 ③/④

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 妄念というのは、実体がないのにあるように勘違いして起こる意識であり、妄想とはそれをもとに膨らむ根拠のない思考のことです。その意味では、私たちが抱く妄念・妄想の最たるものが神という概念であるとも言えます。
  「その前に神様は、いったいどこで何をしておられたのか?」というのは、大拙のいわばブラックユーモアでしょう。仏教(とりわけ禅)には、神(この場合は創造主)などという絶対者は存在しません。仮に存在していたとしても、神でさえ「諸行無常」「諸法無我」という宇宙の摂理の下にあり、時間や空間の影響から逃れることができないということです。
 では、アダムとイブの話はどうでしょうか。「リンゴをもう一度かじればいい」という大拙の深意はどこにあるのでしょうか。
 大拙の言うように、もしアダムとイブがリンゴをもう一度かじったとしたら、果たして神はどうしたでしょうか?自らが造り出した人間がその命令を無視するなど、全く想定外の行為のはずです。乱暴な想像ではありますが、神はパニックを起こし、恐らくは何もできなかったのではないでしょうか。
 ここで大拙の言いたかったことは、何だったのでしょう?
 それは、もう一度リンゴをかじり、そのおいしさを十分に味わえばいいということではないでしょうか。
 仏教(とりわけ禅)では、人間は、常に自(おの)ずからに由(よ)という在り方が尊重されます。外界の何ものからも、騙されたり束縛されたりすることのない在り方です。これが「自由」についての仏教の考え方です。アダムとイブは、思う存分にリンゴを味わい、今ここに楽園があることをしっかりと噛み締めればいいということです。「昨日」は記憶の世界であり、「明日」は想像の世界です。常にあるのは「今」です。そして「今」の連続です。大切にすべきは「即今只今(そっこんただいま)」であるということなのだと思います。
 この二つの話は、つまるところ「神はいない」ということを言っているのではないでしょうか。大拙は、「禅とは自己の存在の本性を見抜く術であって、それは束縛からの自由への道を指し示す」と述べています。想像ではありますが、自己の存在の本性を見抜いた先には、神などという妄念・妄想は跡形もなく消滅するということなのでしょう。大拙の思想の核心は、まさにこの二つの話の中に示されているように思われます。(以下、④/④につづく)
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