2017
05.29

ギャラー56

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◎これまで掲載した水をテーマにした写真をギャラリー56」としてまとめました。 

 
水は百面相 どれも水の顔には違いない 
 しかし どれも本当の顔ではない 
 心も同じこと
 
今回の写真は、1~3は豊田市(阿知波池)で、4~6は岐阜県(養老の滝)7と8は、豊明市(星名池)で撮影したものです
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56-5 養老の滝 

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次回は「ミクロの世界と一元論」を掲載(4回配信)します。ぜひ、ご訪問ください。

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2017
05.25

「恥ずかしい話」の考察 ④/④

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 一人のきこりが山に入って、あちらこちらで木を切っていると、そこへ見馴れない動物が出てきました。珍しい動物だと思ったきこりは、その動物に声をかけました。
「お前はいったい何というものだ?」
すると動物は次のように答えました。
「私は、サトリというものだ。私は人間の考えていることが手に取るように分かるという特技がある。」
それを聞いたきこりは、にわかに色めき立ちました。そして、サトリを生け捕りにして売り払い、大金を得ようと考え始めました。するとサトリは言いました。
「お前は、私を捕らえて売り飛ばそうとしているな。」
自分の考えていることを見透かされたきこりはとても驚きました。サトリの言うことは正しかったのです。
 そこできこりは、忘れたようなふりをして後ろに回り、気づかれる前に捕らえてやろう考えました。するとサトリは言いました。
「お前は、忘れたようなふりをして、後ろから私を捕まえようとしているな。そうはいかないぞ。」
 それを聞いたきこりはだんだん腹が立ってきました。するとサトリは言いました。
「お前は、私が捕まえられなくて怒っているな。」
 きこりはすっかり困ってしまいました。これではどんなことを考えてもサトリに覚られてしまい、捕まえることができません。
 そこで、きこりはサトリを捕らえることを諦めることにしました。そして、再び斧を手に木を切り始めました。
 するとどうしたことでしょう。斧を振り上げた途端、斧の柄から刃が抜け、空中高く飛び上がったかと思うと、遠くからその様子を眺めていたサトリの頭に当たり、サトリは目を回してしまったのです。
 こうして、きこりはサトリを生け捕りにすることができました。

 この話を読者はどのように受けとめられるでしょうか。「得たいと思わないと決心したときにこそ得ることができる」というたいへん含蓄のある教示ではあるのですが、凡人にはこれがたいへん難しいのだと思うのです。やはり鍵になるのは「無心」に徹するということでしょうか。(〆)
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2017
05.21

「恥ずかしい話」の考察 ③/④

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 仏教では、“煩悩の炎”を吹き消せば、心は鎮まり解放され、行動も自由になると説かれます。思えば、走行で生じる風圧やワイパーの動作に効果がないと気づかされたことが大きな転換点でした。大袈裟か知れませんが、そのとき私の“煩悩の炎”は、一時的に火力を弱めていたのかも知れません。
 もし、あのまま車を暴走させていたら、私は交通事故を起こしていたかも知れません。あるいはスピード違反で検挙されていたかも知れません。私にとって、これほどの不自由はありません。笑われるかも知れませんが、そのとき私は瞬間的に「悟り」の状態に入ったのかも知れません。
 “煩悩の炎”を吹き消すことは、我欲・我執を封印することとも言い換えられるかと思います。それは、自分の都合のいいようにしよう、自分の思い通りにしようという執着心から解放されることでもあります。その意味では、私は自由になったと言えるでしょう。そして、同時に虫も自由になったのです。
 結局は、虫からの「無情説法」を聴いたのだと思います。自分ではどうすることもできないことは、そのままにしておく(受け入れる)…、自分が変わらなければ、相手も変わらない(自分が変われば、相手も変わる)…、自分がつくった苦悩は、自分でしか解消できない…、これが虫からの教えだったと思います。
 “煩悩の炎”を吹き消し、我欲・我執を封印することを「悟り」と定義するなら、私はそのチャンスを虫から与えてもらったのです。改めて思い返すと、誠にありがたく、得難い出会いだったと思います。
 ただ、こんなふうに考えると「悟り」などという体験は、案外、思いがけない場面で得られるのではないかとも思えてきます。そこで最後に、仏教説話として伝わる面白い話を紹介したいと思います。「きこりとサトリ」と題した次のような話です。(以下、④/④につづく)
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2017
05.17

「恥ずかしい話」の考察 ② /④

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 まず、最初に虫に出会ったときの私の反応です。私は、とっさに邪魔なものだと感じました。運転するのに支障があるほどのことはなかったのですが、単に目障りだったのだと思います。
 しかし、今、冷静になって考えてみれば、虫を排除したいというのは私の身勝手な思いです。虫にしてみれば、私の車に止まることには何らかの意図や意味があったはずです。したがって、私から受けた仕打ちは極めて理不尽なものだったと思います。身の自由を奪われ、さぞや不愉快でもあったことでしょう。
 そして、車は赤信号に差しかかりました。このときの私には、自分の身勝手さへの気づきはまだありませんでした。頭の中は、小さな虫を思うがままにできないことへの悔しさが渦巻いていました。若気の至りとはいえ、まことにお恥ずかしい有り様です。
 ところが、まさに青天の霹靂でした。車の停止と同時に、虫は何事もなかったかのように、ひらひらと中天に飛び立っていったのです。
 「してやられた!」という思いはありました。しかし、その一方で、虫の姿に何か清々しいものも感じました。身の自由を得たものに対して無意識のうちに同化していたのかも知れません。そのときの不思議な感覚は今でも忘れられません。その後、しばらくの間、運転席から虫の姿を目で追っていたと記憶しています。

 ところで、仏教徒が認めなければならない三つの立場の一つに「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)があります(他の二つが「諸行無常」「諸法無我」)。「涅槃」というのは、サンスクリット語のニルバーナ漢訳したものです。燃えさかる炎を吹き消すという意味ですが、炎というのは言うまでもなく“煩悩の炎”のことです。したがって「涅槃寂静」というのは、あらゆる煩悩の炎を吹き消し、心が完全に鎮まった状態のことを述べたものです。いわゆる「悟り」の境地です。
 当初、私が虫に対してとった行動はまさに煩悩の為せる業だったのだと思います。虫を排除したいというのは私の我欲・我執に他なりません。虫の都合や立場などまっく念頭にありません。運転中に私が試みた愚行は、ことごとく虫の自由を奪うものでした。
 また、ここで忘れてはならないことは、それが私自身の心を縛るものでもあったということです。「~したい」「~しなければならない」「~するしかない」などの思いは、明らかに私の心を縛り、悩ませ、苦しめるものでもありました。それこそが“煩悩の炎”によってもたらされる負の心なのだろうと思います。(以下、③/④につづく)

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2017
05.13

「恥ずかしい話」の考察 ①/④

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 以前、本ブログで「恥ずかしい話」と題して、私の体験談を紹介したことがありました。思い起こせば、かれこれ40年ほど前のことではあるのですが、私の中でどうしても忘れられない体験であり、今でも記憶から消えることがありません。最初に、以前、掲載したブログの内容を再掲させていただきます。


 かなり前のことではありますが、忘れられない、恥ずかしい思い出について話したいと思います。
 それは、6月の末の夕方、川沿いの山道を車で走っているときのことでした。百メートルほど先の信号が赤だったので、スピードをゆるめ、ゆっくり車を止めました。
 すると、どこからか、薄い透明の羽根をヒラヒラとさせながら一匹の小さな虫が飛んできて、車のワイパーにとまりました。その虫は、体の長さが三センチほどで、体も足も細くて、見るからに弱々しい感じのする虫でした(今思い返してみるとウスバカゲロウだったかも知れません)。
 とまってからは、じっとして動かなかったので、運転するのに邪魔になるほどではありませんでした。しかし、ちょうど目の前に見えるのでとても気になりました。
 「早くどこかへ行ってくれないかな。」
と心の中でつぶやく声が聞こえました。でも、すぐにこうも考えました。
 「小さくて、弱々しい虫だから、車が走り始めれば、きっと風に吹き飛ばされてしまうに違いない。そのままにしておこう。」
 信号が青になったので、ゆっくりと車をスタートさせました。すぐに飛ばされてしまうだろうと虫の様子を見ていたのですが、その考えが甘かったことにすぐ気づかされました。
 車のスピードはだんだん速くなっていくのに、虫はそのままなのです。それどころかスピードが速くなるにつれて、細い足をしっかりとワイパーに絡ませ、薄い羽根を激しくなびかせながら、全身の力を集めるようにして、しがみついているのです。 
 そんな様子を見て、次の方法を考えました。
 「ワイパーを動かせば、ひとたまりもなく、飛ばされるだろう。」
 ワイパーのスイッチを高速にして入れました。ワイパーの腕は激しく左右に動き始めました。
 けれども、結果は同じでした。虫は、その細い足に一層力を入れるようにして、ワイパーの動きと風の勢いにじっと耐えているのでした。
 そんな状態がしばらく続いた後、次の信号が迫ってきました。赤信号だったため、速度をゆるめました。虫をどける方法はもう一つしかありませんでした。車を止め、外へ出て虫を捕まえようと決心しました。
 ところが、そう思って、交差点の前で車を止めたとき、予想もしないことがことが起きました。その虫は、車が止まるのを待っていたかのように、ひらひらと飛び立っていったのです。私は、口を「ぽかん」と開けたまま、ただ見ているだけでした。


 そのころの私には、仏教についての関心も知見も全くなかったのですが、今この話を仏教的な視点から眺めてみると、興味深い事実があることに気づかされます。そこで、以下、思うところを綴ってみようと思います。(以下、②/④につづく)
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