2017
03.06

ギャラリー54

Category: 未分類
◎これまで掲載した水をテーマにした写真をギャラリー54」としてまとめました。 

 
水は百面相 どれも水の顔には違いない 
 しかし どれも本当の顔ではない 
 心も同じこと
 
今回の写真は、1は名古屋市(東山動物園)、2・3は豊田市(阿知波池)、4~7は安城市(丈山苑)で撮影したものです
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次回は、「聞くこと少なき人」を掲載(3回配信)します。ぜひ、ご訪問ください。

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2017
03.02

「乾屎橛」④/④

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 荘子の「屎溺」も雲門禅師の「乾屎橛」も、そして玄侑氏の「牛糞」も、たいへん極端な話ではあります。しかし、「何かを汚いと思う自分の料簡(りょうけん)こそ、狭く汚いのではないか?」という玄侑氏の指摘に、私は身につまされるところがあるのです。
 「屎溺」も「乾屎橛」、また「牛糞」も確かに衛生的な見地からすれば、好ましくないものであり、できるだけ遠ざけておきたいものではあります。それは否定しません。
 ところが玄侑氏が指摘するように、私たちには得てして自分の好みや都合、あるいは獲得した知識や認識、概念や論理だけで物事を区別し、分け隔ててしまう傾向があるものです。いわゆる「自他」の分離作業です。
 その典型が、今国際社会で起こっている人種や宗教、イデオロギーの違いなどに端を発した様々な紛争ではないでしょうか。そこにあるのは単に概念上の違いだけであるにもかかわらず、それを自らの存立を脅かすもの、それ故に徹底的に排除すべきものという論理にまで飛躍させ、敵と味方を作り上げ、悲劇の連鎖を止められないでいる人間の姿です。
 また、今や学校のみならず会社や地域にまで拡大している“いじめ”の問題もこの延長線上にあるように思います。些細な違いをまるでピンセットでつまむようにして取り出し、それを頭の中で肥大化させて攻撃材料に仕立てる愚行です。
 中国に禅をもたらした達磨の句の一つに「不立文字(ふりゅうもんじ)があります。仏教の真理(あるいは「禅」の真理)は、文字では説明できないものであり、文字を使って理解できるものではなく、文字を使って説明したものは真理から離れていく…。概ね、こんな意味かと理解しています。「自分(人間)が頭の中に作り上げたもの」は当てにしないという禅特有の認識論とも受け止められます。
 要するに文字や言葉は、物事の本質を表す手段にはならないということです。実相と表現とのギャップはここに由来するのだと思います。
 最後まで尾籠な話に終始したことをお詫びしなければなりませんが、今回紹介した荘子の「屎溺」も、雲門禅師の「乾屎橛」も、結局は、文字や概念の持つ危うさをしっかり自覚した上で、注意深く扱うようにという警告ではないかと思うのです。人間(自分)中心のものの見方、考え方から生じる歪みや偏りには、くれぐれも気をつけないといけないということでしょう。
 いずれにしても、今回も、荘子の思想と禅的な思考の類似性にたいへん驚かされたことでした。(〆)

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2017
02.26

「乾屎橛」③/④

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 “糞かきベラ”などと聞いてよい印象を持つ人はまずないでしょう。そもそもトイレットペーパーのようなものなのですから…。さらに最近では「乾屎橛」を“糞が乾燥して固くなったもの”とする新しい解釈もあると聞きます。となればなおのこと、遠ざけたいと思うのが通常の感覚でしょう(返す返すも尾籠な話になり申しわけありません)。
 これには、それが単に不衛生なものということに加え、不浄なものというイメージもあるかと思います。汚れ、穢れたものとしての受け止め方です。トイレのことを“御不浄”などと呼ぶこともありますが、これなども多分に情緒的なイメージに基づく言い方なのだと思います。
 このように、仏の持つイメージとはとは対極にあるのが「乾屎橛」ですが、それを敢えて仏と呼んだ雲門禅師の真意は一体どこにあるのでしょう。以下は、私見です。
 最も不浄と考えられるものも、実は清浄なものである…、私たちは、この逆説の中から学び取らなくてはならないのではないでしょうか。
 具体的には、言葉や知識、概念や論理などを疑ってみるということです。実相と表現との間にあるギャップを認識することと言い換えることもできるかも知れません。そこには、埋めることのできない溝があるということです。
 玄侑宗久氏は別の著作本『ベラボーな生活』の中で面白い体験談を披瀝しています。氏が修行道場に入門してまだ間もないころの出来事として紹介されているものです。次のような話です。
 ―先輩の修行僧と三人でトラックに乗って畑に入れる牛糞をもらいに農家に出かけた。臭いにはだんだん馴れたが、積み込みが終盤にさしかかったころ、先輩から「スコップじゃ無理だから手を使って」と言われた。思わず「大丈夫ですか?」と聞いたが、逆に「汚いと思うのか?」という反応…。躊躇しながらうなずくと「牛の糞が、何でどんなふうに汚いのか、説明してくれないか?」と返された。結局、答えようがなく、顔を歪めながら牛糞の中に両手を突っ込んだ―。
 これを先輩僧からの“いじめ”などと捉えてはならないことは言うまでもないでしょう。玄侑氏は、このことを振り返り、次のように述懐しています。
 「私は後に知った。考えてみれば、何かを汚いと思う自分の料簡(りょうけん)こそ、狭く汚いのではないか?単に自分にとって他者であるというだけで、他者なりにまっとうに生きている生物すら、我々は「ばい菌」と呼んで汚がったりしている。(中略)牛糞を掴みたいわけではないが、あまりにも根拠のない「汚さ」が、世の中に多過ぎはしないだろうか?
(以下、④/④につづく)

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2017
02.22

「乾屎橛」②/④

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 ところで、『無門関』の中にはこれとたいへんよく似た問答が他にもあります。第18則の「洞山三斤(とうざんきん)と第37則の「庭前柏樹(ていぜんはくじゅ)がそれです。
 第18則の「洞山三斤」では、第21則と同じように「仏とはどのようなものか?」と問われますが、これに対して洞山禅師は「麻が三斤ある」と答えています。「斤」というの重さのことですが、一斤が600gですので「麻が1,800gある」というのがその答えだったというわけです。
 また、第37則の「庭前柏樹」では、「達磨がはるばるインドからやってきた真意は何か?」と問われます。この質問に対しては、趙州(じょうしゅう)禅師が「庭に柏樹子(ビャクシンというヒノキの仲間)がある」と答えています。
 ちなみに、禅にあっては「達磨がやってきた真意は何か?」という問いも、広義には「仏とは何か?」を問うものであるとされます。
 雲をつかむようなやり取りに困惑するばかりですが、これが禅問答です。洞山禅師の答えも趙州禅師の答えも、たまたま目の前にあったものを指して「仏」としたのではないかというのが定説のようですが、とは言っても常識的に見ればたいへん奇妙な答えです。全くかみ合ってないように感じられます。
 ただ、いつも紹介している「山川国土悉皆成仏(さんせんこくどしつかいじょうぶつ)という仏教固有の世界観に立つなら話は別でしょう。「山川国土悉皆成仏」…。伝承によれば、これはその昔、釈迦が菩提樹の下で「悟り」を開いたときに口にした言葉されるものですが、人間を含む動物、植物、さらには無生物も含め、森羅万象に仏が宿っているというという前提に立つなら、この答えも少しも奇異なものではないように思えます。
 ただ、第21則「雲門屎橛」の話の場合は、少し事情が異なるように思えます。もちろん雲門禅師(以下、禅師とします)の境地の中に「山川国土悉皆成仏」という確信があったことは言うまでもないと思います。しかしこの場合、禅師は単に目の前にそれがあったから「乾屎橛」と答えた、ということではないと思うのです。そこには、紛れもなく禅師一流の意図があったはずです。(以下、③/④につづく)
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2017
02.18

「乾屎橛」①/④

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 今回も、「荘子の思想」と「禅的な思考」との相似性を窺わせる興味深い話を一つ紹介したいと思います。玄侑宗久(臨済宗の僧侶、作家)著の『荘子と遊ぶ』にあった話です。ただ、たいへん尾籠な内容を含んでいることを予めお断りします。
 東郭子という男が荘周(荘子)に尋ねます。「いわゆる道というのは、どこにあるのでしょう」。すると荘周は「どこにでもあるよ」と答えます。
 以下は、その後の二人のやり取りです。
 東「具体的に言ってほしいな」
 荘「じゃあ、オケラかアリかな」
 東「ずいぶん下等なんだね」
 荘「イヌビエ(穀物の一種)にもあるよ」
 東「もっと下等じゃないか」
 荘「瓦や敷き瓦にだってあるよ」
 東「まいったなあ」
 荘「屎溺(大小便)にもある」

 これを聞くと、東郭子はあきれて黙ってしまったと言います。
 この話に触れたとき、いつも引用する禅問答集『無門関』第21則にある「雲門屎橛(うんもんかんしけつ)という不思議なやり取りを思い出しました。
 ある修行僧が雲門禅師に「仏とは一体どのようなものでしょうか?」と問います。すると雲門禅師は一言、「乾屎橛(かんしけつ)」と答えます。たったこれだけの内容なのですが、ここでは禅師の真意がどこにあるかを問われるようです。
 「乾屎橛」というのは聞き慣れない言葉ではありますが、一般には“糞かきベラ”と訳されます。紙が貴重品だったころ、落とし紙に代わる用具として使われたものとされています。「道」と「仏」、問われているものにに違いはありますが、この場合、双方ともほぼ同意のものとご理解ください。要は、「大宇宙を貫いている真理」を尋ねているということです。
 それにしても、禅ではなぜ、選りに選ってこんな尾籠な話を持ち出すのかと疑問を持たれる読者も多いかと思います。確かにそうだと思います。ただ、そこには深長な意味があることを理解しなければなりません。この先も。少し我慢してお付き合いいただければと思います。(以下、②/④につづく)

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