2017
04.03

アドラーの心理学から④/⑤

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 アドラーの言葉の中に「自分自身の幸福と人類の幸福のためにもっとも貢献するのは共同体感覚である」という言葉がありました。先にも記したように「共同体感覚」とは、「他の人の目で見て、他の人の耳で聞き、他の人の心で感じること」です。
 だとするなら、この理論は「利他即自利」あるいは「自他利行」という大乗仏教の根本理念にそっくり重なります。自分のことは後回しにし、相手が喜ぶようにしようとすることが、結局は自分自身のためになるという考え方です。「情けは人のためならず」という諺もこれに通じるものでしょう。他者を「仲間」と見て、他者に貢献することで自分の価値を確認でき、自己受容できるようになるというアドラーの主張もそのことを述べたものだと思われます。
 また、「われわれは他者と結びついて生きている。人間は、個人としては弱く限界があるので、一人では自分の目標を達成することができない」 という言葉からは、「諸法無我」という言葉が連想されます。「諸法無我」は、一切の現象や存在には「我」と呼べるような実体がないということですが、それはあらゆる事物が、無限の関係性の中にあるということでもあります。つまり、人間を含む森羅万象が互いに助け・助けられ、支え・支えられという関係の中にあり、固定的な実体はないということです。
 「優越性の追求」においてアドラーが求める、他者を競争すべき「敵」から、協力して生きる「仲間」へと意識転換するときに役立つのは、この「諸法無我」に類する思想と言えるのではないでしょうか。
 さらに、アドラーは共同体という概念について「共同体とは、(中略)、過去、現在、未来の全ての人類、さらには生きているものも、生きていないものも含めた、この宇宙全体を指している」と述べています。
 その言葉に「自他一如」あるいは「万物と我と一体」「天地と我と同根」という仏教思想を思い起こすのは私だけはないと思います。
 「山川国土悉皆成仏」、これが釈迦の悟りだったとされます。釈迦は、長年にわたる苦行の末、一切の生きとし生けるものに仏が宿っていることを覚知しました。仏であるという一点において全てのものが平等であり、一つであるということです。全てを「一人称」で捉える世界観です。いわゆる「自他一如」です。「利他即自利」あるいは「自他利行」など大乗仏教で尊ばれる実践行は、この理念から派生してくるものです。(以下、⑤/⑤につづく)

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2017
03.30

アドラーの心理学から③/⑤

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ブッダガヤの大菩提寺(マハーボーディー寺院)-600x400 [マハー・ボーディ寺院]
 では「共同体感覚」というときの共同体というのは何のことを指すのでしょう。アドラーの言葉です。
 共同体とは、さしあたって自分が所属する家族、学校、職場、社会、国家、人類という全てであり、過去、現在、未来の全ての人類、さらには生きているものも、生きていないものも含めた、この宇宙全体を指している。
 その上でアドラーは、「人生の意味」は全体(共同体)、あるいは他者への関心・協力であるとし、他者への関心を持てる人だけが、他者に貢献し、貢献感を持つことができると考えました。

 以上、アドラーの提唱した心理学の理論についてその概略を紹介してきましたが、そこで仏教との接点です。
 私は仏教で説かれるいくつかの言葉が頭を過ぎりました。「利他即自利」「自他利行」「諸法無我」「自他一如」「万物と我と一体」「天地と我と同根」などがそれです。どの言葉もこれまで本ブログで紹介してきたものばかりですが、いずれも大乗仏教の根本理念を表すものであることに共通点があります。
 仏教には大きく分けて、大乗仏教と小乗仏教があります。大乗には「大きい、優れた乗り物」という意味があり、これと対になる小乗には、「小さい、劣った乗り物」という意味があります(ただし小乗仏教という言い方は、大乗を自称する仏教徒が、従来の仏教に一方的に投げつけた蔑称で、正しくは上座部仏教と呼ぶべきだとされます)。
 小乗仏教は、出家中心の仏教で、修行と勉学に精励し、自己の解脱(悟りに至ること)が優先されます。東南アジアに伝わる仏教は小乗仏教の流れに属し、南伝仏教とも呼ばれます。
 一方、大乗仏教というのは、小乗仏教がひたすら自己の解脱を求めた仏教であったのに対し、自己の解脱と併せて衆生(人々)を救うべきであるという立場をとります。東アジアに伝わった仏教はこの流れを受け継ぐもので、北伝仏教とも呼ばれます。言うまでもなく、日本に伝わった仏教は大乗仏教の流れを汲むものです。(以下、④/⑤につづく)
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2017
03.26

アドラーの心理学から②/⑤

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テキストには、この引用文の後に次のような記述がありました。
 人間が抱える問題は、自分のことだけを考えて生きているという点にある―。その自分にしか向けられない関心を他者に向けていく―。そして他者を競争すべき「敵」でなく、協力して生きる「仲間」と思えるようになれば、誰かの役に立ちたいと言う気持ちが生まれてくる―。こうした他者を「仲間」だと意識することを、アドラーは「共同体感覚」と呼んだ―。
 アドラー心理学によれば、対人関係の中で悩みを抱えている人にとって、他者は自らを陥れようとする怖い存在だとされます。他者と関わることで摩擦や軋轢が生まれるため、それを避けるために他者と関わりを断とうとする心理が働くというわけです。他者を「敵」と見なす心の動きは、ここから生じるというわけです。
 しかし、生きる喜びも幸せも、対人関係の中でしか得ることができません。そこで、他者に対する見方を転換する必要があります。具体的には、他者を「敵」でなく「仲間」と見ていくということですが、そのためにアドラーが発見、提唱したのが「共同体感覚」という理論です。
 アドラーは、「共同体感覚」について次のように述べています。
 われわれのまわりには他者がいる。そしてわれわれは他者と結びついて生きている。人間は、個人としては弱く限界があるので、一人では自分の目標を達成することができない。(略)そこで人は、弱さ、欠点、限界のために、いつも他者と結びついているのである。自分自身の幸福と人類の幸福のためにもっとも貢献するのは共同体感覚である。
 「他の人の目で見て、他の人の耳で聞き、他の人の心で感じる」ように努めること、これが「共同体感覚」の一つの定義であるとありました。他者を「仲間」と見る人は、他者に貢献でき、そのことの貢献感が自分への価値観を高めることになるという理屈です。そうすれば、対人関係の中に勇気をもって入って行くことができるというわけです。(以下、③/⑤につづく)

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2017
03.22

アドラーの心理学から①/⑤

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 19世紀後半にオーストラリアで活躍した著名な心理学者であるアルフレッド・アドラーの理論に触れる機会に恵まれました(NHK Eテレ「100分de名著」)。仏教、とりわけ禅をテーマにすることの多い本ブログにあって、心理学について取り上げることをいぶかしく感じる読者もあるかもしれません。心理学と言えば、人の心の働きや行動を研究する学問であり、実験的方法を取り入れ、実証的科学として成立してきたものです。
 しかし、仏教も心理学もその究明対象(あるいは研究対象)となるのは“心”です。心理学に詳しい友人との対話などから、アプローチの仕方にこそ差はあれ、どこかに接点はあるはずだとの思いはかねてからありました。それだけに誠にありがたい出会いでもありました。
 とは言っても、心理学についての知識は皆無にも等しい我が身です。今回はNHK出版によるテレビテキスト(岸見一郎著「人生の意味の心理学」)を頼りにアドラー心理学の一端を学ぶことになりました。以下、その中から知り得た事柄をもとに話を進めたいと思います。
 テキストによると、アドラーはフロイトユングと並んで心理学における「三大巨頭」の一人とされるとありました。第一次世界大戦が勃発すると精神科医として従軍しますが、傷ついた兵士の姿を目の当たりにして、“人間は闘わないために何をすべきか”を深く考えるようになり、そこで「共同体感覚」を発見したとありました。どうやら、この「共同体感覚」というのがアドラー心理学を特徴づける理論のようです。
 アドラーは、人間は常に今よりも優れた存在になりたいとい思いながら生きていると言い、これを「優越性の追求」と呼びました。そして、多くの人間がこの「優越性の追求」を「競争」と思い込み、他者を蹴落としてまでも上に立ち、自分の優位性を示そうとする傾向にあるとしました。そして、それを精神的な健康を損ねる最大の要因とし、健全な「優越性の追求」の重要性を説いています。
 アドラーの唱える健全な優越性とは、他者と比較して自分が優れていると感じるものではなく、理想の自分との比較の中で生まれるものです。つまり、自分の「マイナス」を「プラス」に転換するために努力を重ねることの中にあるということです。しかもここで特徴的なことは、「優越性の追求」が自分のためだけにするのではなく、他のすべての人が豊かで幸福になる仕方で前に進むことがイメージされているということです。
 アドラーの言葉です。
 真に人間の課題に直面し、それを克服できる唯一の人は、その優越性の追求において、他のすべての人を豊かにするという傾向をみせる人、他の人も利するような仕方で前進する人である
(以下、②/⑤につづく)
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2017
03.18

聞くこと少なき人は ③/③

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 解説(CD録音)を聞きながら、途中でその場から逃げ出したくなるような心境にもなりました。まことに身につまされるお話でした。
 高齢化と少子化はますます進み、社会保障にまつわる問題が深刻化することは目に見えています。それだけに、「社会や国家のお世話にならず、逆に役立つ生き方をする」と言う言葉は胸に刺さります。してもらうのを待つだけという在り方から、できることで世の中に役立っていくという逆転の発想です。今の私にはおよそ縁遠い在り方です。

 それにしても、友松氏が指摘している「多聞」によって得られる知恵とされる仏法の道理とは何のことでしょうか。そして、そのことを通して目指すべき「実老」とはどのようなことなのでしょうか。友松氏は、その詳細については述べていません。ただ、肉体の衰えに抗って生きていくことでないことだけは確かでしょう。
 浅学な私にその答を導き出す能力はとてもありませんが、身の程知らずな私見を述べさせていただくなら、それは「煩悩(貪・瞋・痴)」のもととなる私心をできるだけ排し、無心で生きることに努めることではないでしょうか。
 私たちは、ややもすると自分にとって心地よく、都合のよいことだけを受け入れ、そうでないものを遠ざけようとする心が働きます。そして、その傾向は年を重ねる毎に強くなるというのが私自身の実感であり、自戒でもあります。
 「実老」を生きるというのは、このような私たちの心の持つ性質をしっかりと理解し、それを正しく制御しながら年を重ねていくことではないでしょうか。友松氏の述べる「社会や国家に役立つ生き方」には遠く及びませんが、少しは「独立自尊の生き方」に近づけるのではないか思うのです。
 仏教が発しているメッセージを謙虚に学び続けること、そして、日々、柔らかく、広く、大きな心を持つ努力を続けていくこと、これが今私ができる「実老」を生きることではないかと思っているのです。(〆)

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