2017
11.05

心の鏡R ⑤/⑦

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 では、植物の場合はどうでしょう。植物にも「心」はあるでしょうか?
 ここでは、「ある」と答えたいと思います。なぜかでしょうか。
 サクラを例にしてみます。サクラは、季節が巡るたびに、芽吹き、花を開かせ、新緑の葉を輝かせ、そして紅葉させた後、その葉を落とします。この営みを、毎年、繰り返えさせるメカニズムはどのようになっているのでしょうか。
 当然のことながら、植物たちには、眼はありません。耳も、鼻も、舌もありません。しかし、「触覚(外界の変化を感じ取る力)」は、どうでしょうか。
 季節の移ろいは、気温の変化であり、それを含む風の変化によって知らされます。どの植物たちも、サクラのように、吹く風の温度の変化や風圧の変化などを感じ取り、季節の移り変わりを捉えながら、そのときどきに命を精一杯に輝かさせているはずです。その意味では、植物たちは、「触覚」を通して、常にその「心」に風の姿を映し出しているのではないでしょうか。
 では、植物に意識はあるのでしょうか。それは分かりません。「ある」かも知れないし、「ない」かも知れません。しかし、もし仮に「ある」とした場合でも、動物(まして人間)のそれと比較すれば、はるかに微弱なはずです。
 ところで、先に、意識の働きは弱い方が「幸い」であると書きました。その理由は、人間より動物たち、動物たちより植物たちの方が、外界を正確に認識する能力に長けていると思われるからです。
 ところが、このように論理を展開していくと、興味深い結論に行き着きくことになります。動物や植物よりも、さらに石や岩、土や砂など鉱物(太陽、月、星も含め)の在り方の方が「幸い」であるということです。これらのものには意識はありません。もちろん感覚もありません。そもそも「心」がありません。
 しかし、禅の世界では、そのような在り方がたいへん尊ばれます。これらのものたちが、ただ黙々と自らに与えられた役割を果たしている姿に理想を見るからです。禅寺の庭園で見られる枯山水にも、この考え方が表れているように思われます。 (以下、⑥/⑦につづく)
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2017
11.01

心の鏡R ④/⑦

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 動物たちのもつ意識は人間よりも遙かに微弱なものです。しかし、だからこそそのことが「幸い」であると受け止めるのが仏教の立場です。弱いから劣る、弱いからダメだというのではないのです。真逆です。弱いから優れている、弱いから素晴らしいと言います。なぜなのでしょう。
 先にも述べたように、人間は、「五官」(眼・耳・鼻・舌・身)を頼らずして対象を捉えられません、認識することもできません。好むと好まざるとにかかわらず、意識あるいはエゴ(自我、あるいは我欲・我執)の影響を受けながら、個々の認識を蓄積・拡大していきます。そして、その認識を統合したもの、つまりその集合体こそが、「私」という概念です。
 意識により認識がまとめられて「私」は作られていきます。すると、次に厄介なことが起きてきます。その「私」が「五官」に働きかけ、その好みや癖を押しつけながら情報の再収集を始めます。そのため「私」は、ますます偏り、歪み、ますます狭く、ゆとりのないものになっていきます。そして、それが相互の孤立化を生み、仲違いや争いのもとにもなります。
 「心こそ 心まどわす心なれ 心に心 心許すな」という沢庵禅師の有名な古歌もありますが、これはこのような特質をもつ「心」の危うさを詠ったものではないかと思います。
 人間にもいろいろなタイプがあり、比較的に自己主張の少ない人もいれば、穏やかで従順なタイプの人もあります。しかし、いくらそうであっても、動物たちにのそれとは、比較にならないほど、強力で、強烈であるのが人間の意識だと思います。 その意味では、動物たちの「心」の方が外界のものを映し出す能力に長けており、外界の世界の真実の姿をより正しく認識しているということになるのかも知れません。 (以下、⑤/⑦につづく)
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2017
10.28

心の鏡R ③/⑦

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 このように、「心」には、複数のツールを通して外界のものが映し出されます。ここまでは、鏡とよく似ています。
 ところが、「心」は、その後、映し出されたものに現実的な意味づけや価値づけなどをしていきます。 また、鏡が目の前の対象物を忠実に映し出すのに対して、「心」が映し出すものは必ずしもそうでない場合があります。ここのところは鏡と大きく異なります。

 『般若心経』では、感覚器官ことを「眼・耳・鼻・舌・身・意」と詠まれています。「六根(ろっこん)」とも呼ばれます。そして「心」は、この「六根」を通して形成されるとされます。
 ところが「六根」の中でも「意」、つまり意識の働き方には気をつけなければなりません。ここでいう意識というのは、エゴ(自我、あるいは我欲・我執)のことです。分かりやすく言えば、自己愛からくる身勝手な感情の働きです。
 「眼・耳・鼻・舌・身」の「五根」は、意識の影響を受けながら観たり、聴いたり、嗅いだり、味わったり、触れたりして、外界の世界を認識していきます。しかし、その過程で、意識から“好み”や“都合”などの形で横やりを入れられ、正常な働きを妨害されてしまいます。そのために「心」は、真実の姿を正しく映し出せないこともあります。
 このように考えると、外界からの情報をより正しく映し出す能力においては、「心」は、鏡よりも劣っていると言えるかも知れません。

 ところで、動物にも「心」はあるのでしょうか?
 これまでの論理に立てば、動物にも当然「心」があると言わざるを得ません。動物たちには、眼もあれば、鼻もあるし、耳もあります。舌もあるし皮膚感覚もあります。動物たちも、これらのツール(感覚器官)を通して、外界の対象物から情報を取り入れ、対象物を「心」に映し出しているはずです。そして、その過程では、それなりに意識の影響もあるだろうと思われます。
 とは言え、動物の意識は人間のそれに比べれば微弱なものでしょう。いえ比較すること自体が無意味なのかも知れません。それほどに人間のもつ意識は、強力であるということです。 (以下、④/⑦につづく)

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2017
10.24

心の鏡R ②/⑦

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 一度、眼を閉じてみてください。こうすると、「心」には何も映し出されないでしょうか…?いえ、決して、そんなことはありません。眼を閉じたとしても、他の感覚器官を通して様々な情報が入ってきます。台所からカレーのいい匂いがすれば、「今晩は、カレーライスだな」と分かるし、散歩をしていて、ウメの花やキンモクセイの花の匂いがしてくれば、「ああ、ウメの花が咲いているな」「キンモクセイの花が咲いているな」と分かります。このような場面を捉え、禅では次のように言います。「その時、心はカレーやウメ、キンモクセイになっているのだ」…と。
 ずいぶん突飛なことを言っているように思われるかも知れませんが、これが禅の説く「自他一如」という考え方です(「自他不二」という言い方もあります)。「自」というのは、自分のことですが、「他」というのは、他の人を指すものではありません。自分以外の全ての事物を含むものとしての「他」です。自分と自分以外の全てのものは、根源的に一つのものであるというのが禅の基本思想です。
 では、眼を閉じた上に、鼻に鼻栓をしてみましょう。これで鼻からの情報も遮断されました。しかし、この場合でも、「心」には、外界の情報は入ってきます。言うまでもなく耳を通してです。音として捉えられる情報は、実に豊かです。ふだんは眼からの情報に頼ることが多い私たちですが、一端、眼を閉じると、身の回りには様々な音が溢れていることに気づかされます。
 禅では、むしろ音こそが尊重されます。鐘の音が聞こえてくれば、そのとき「心」は鐘になっている…、スズメやカラスの声が聞こえてくれば、「心」はスズメやカラスになっている…、波の音も、風の音もしかりというわけです。
 同様に、舌(味覚)からも、そして触覚からも情報は入ってきます。美味しいお菓子を食べているとき、私たちの「心」はお菓子になっている…、天日で干した温かい布団にくるまっているときには、「心」は布団になっている…、また、春暖の心地よい風に吹かれているときには、春風になっている…、こんな具合です。
(以下、③/⑦につづく)
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2017
10.20

心の鏡R ①/⑦

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 「鏡を見たことはありますか?」…。こんなことを聞かれれば、だれもが「ある」と答えることでしょう。では、「鏡に姿がありますか?」と聞かれたら、何と答えるでしょうか。ある人は、その表面を指して「有る」と答えるかも知れませんし、また、ある人は裏面を指して、また、ある人は鏡の枠を指して「有る」と答えるかも知れません。
 何とも答えに窮する質問なのですが、鏡の裏面や枠を指して「有る」と答えた人は、鏡の本質をよく考えた人と言えるかも知れません。なぜなら鏡の表面は、自由自在に外界の物を写し出し、刻々と表情を変化させるからです。前に「顔」があれば「顔」を、「花」があれば「花」を、「山」があれば「山」を、「雲」があれば「雲」を映し出します。けれども、それは鏡本来の姿ではありません。映し出しているものは、全て虚像だからです
 では、鏡が何でも忠実に映し出すという性質を利用して、鏡の前にもう一枚別の鏡を置いてはどうでしょう。ところがご承知のとおり、鏡の中には絵画における遠近法の如く、無数の枠が映し出されるだけです。では、鏡に姿は「無いか?」と言えば、確かに有ります。
  禅では、よく鏡を「心」に重ね合わせて喩えます。「心」も鏡とよく似た性質をもっているというわけです。つまり、鏡と同じように、外界の対象物を何でも映し出すということです。月を見れば「心」は月を映し出し、海を見れば海を映し出し、花を見れば花を映し出す…といった具合です。
 しかし、言うまでもなく「心」にも姿がありません。したがって、見ることも、触れることもできません。もちろん、音も、匂いも、味もありません。全く、とりつく島もないものが「心」です。しかし、そうではあっても「心」は確かにあります。禅では、この辺りのことを捉えて、鏡と似ていると言っているのだと思います。
 しかし、「心」の全ての性質が鏡と同じだと言っているのではありません。「心」には、「心」がもつ固有の性質があります。以下、そのことについて述べてみたいと思います。 (以下、②/⑦につづく)

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