2017
05.05

「投機」について ②/③

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 玄侑氏は、概念の最たるものが“金(かね)であると指摘しています。“金”は、当初、それ自体が金や銀、貝、刀など、その共同体内部で共通に貴重だと思われるものが用いられていました。それらによって交換されるものが同等の価値をもつと見なされていたからです。それは、実体を持つものであり、さらに生活上の実感もあったはずです。
 しかし、紙幣の出現によってお金は一気に概念度を高めることになりました。ちなみに、現在の一万円札の製造費用、つまり原価は、一枚当たり二十二円ほどだと言います。それを一万円の価値があると見なすのは、人間だけが持つ概念の力によるものです。ネコに小判という諺もあるように、動物たちはそんなものに決して価値などを認めません。また、“金”は放っておいても利子を生み出します。ヘッジファンドなどのように投機的な使い方をすれば、労せずして大きな増益を生むという性質もあります。
 しかし、このように概念・妄想の世界だけで大儲けをしたり、高額な収入を得たりという在り方にどうしても違和感があるのはなぜでしょうか。
 以前、ネズミを使った動物実験で示された「コントラフリーローディング効果(contrafreeloading effect)」のことを紹介したことがあります。初めから餌を皿に入れてある場合と、レバーを押さないと餌が出ない仕掛けがある場合で実験してみると、ネズミはレバーを押す頻度の方が高いというあの興味深い実験です。
 ネズミは、労せずして手に入る餌よりも、レバーを押す作業によって得る餌の方に価値を感じていると推測されるこの実験ですが、さらに興味深いのは、これがイヌでもサルでも鳥類でも魚類でも、動物界全体に普遍的にみられる現象であるということです。もちろん人間も例外ではありません。「投機」による資産運用という、いわば不労所得に対して私たちが抱く違和感は、このような原初的な感覚に根ざしているのではないかと推測するのですが、読者はどう思われるでしょうか。(以下、③/③につづく)
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2017
05.01

「投機」について ①/③

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 突然ですが、「投機」という言葉から、読者はどんなことを連想されるでしょうか。辞書を引いてみると「①損失の危険を冒しながら大きな利益をねらってする行為。やま。②市価の変動を予想して、その差益を得るために行う売買取引。」とあります。現代の資本主義を「投機的資本主義」と呼ぶこともあると聞きました。日常生活に深く関わる様々な物資を、需要もないのに売り買いし、売値と買値の差額で大儲けしようとする、いわゆる投機マネーが横行する昨今の資本主義社会の有り様を指したものだと思います。
 ところが、ある本(玄侑宗久著『無功徳』)の中に、「投機」という言葉はもともとは禅語であるという記述がありました。にわかには信じられなかったのですが、改めて辞書を引くと、確かに「禅宗で、師家と弟子のはたらき(機)が一つになること」とありました。玄侑氏は、「投機」とは、「機に投ず」と読み、修行者が真理の世界に参入して、道と合一する体験を指す言葉だといいます。そして、そこでは「わたし」という輪郭は消滅し、同時にあらゆる概念もなくなるというのです。平たく言うなら、「悟り」に至ることなのでしょう。それが、どうしてこれと対極にあるとも思える言葉に転用されることになったのか不思議としか言いようがありません。
 玄侑氏は、人間はある年齢から「同じ」という概念で様々な物事を括るようになると言います。そして、そもそも普通名詞というのは人間のその性質の上に成立していると指摘しています。例えば「動物」という普通名詞がありますが、イヌとネコ、ウマとヒツジなど、その種類も姿も性質もまったく違うのに、それらを「同じもの」として「動物」という概念で括ってしまうということなのだと思われます。
 いくつもの個別の事物や事象を共通の言葉で括るのは、すべて私たちの脳の働きによるものです。それが概念化という行為です。概念化は、私たちが現実生活を送る上で必要なことではあります。しかし、それは私たちの脳が実体の中の極一部の性質や形状を取り出し、人間にだけ通用する共通の認識を作り上げているに過ぎないということを忘れてはならないと思います。概念化というのは実体からの遊離です。その意味では、美しい、醜い、美味しい、不味いなどの形容詞も、さらに概念度が高くなるのでしょう。(以下、②/③につづく)
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2017
04.27

人を木に変える ④/④

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20130420041930764.jpg [趙州塔]

 実は、趙州と僧との逸話には後段があります。趙州が「庭前の柏樹子」と答えた後のやり取りです。この答えを聞いた僧は、趙州が庭先にある樹木などと物を持ち出して答えたことに納得せず、再び同じ質問〈如何なるか是、祖始西来意〉をします(因みに僧は最初の一語を聞いても悟れなかったのです)。すると趙州は、物で答えていないことを明言した上で、再度、「庭前柏樹子」と答えます。これはどういうことなのでしょう。
 趙州が住していた趙州観音院には柏林寺(はくりんじ)という別名があったと言います。当時、おそらくは境内には柏樹子がたくさんあったのでしょう。僧から問われたとき、趙州の目の前には柏樹子が林立していたと思われます。
 しかし、このときの状況を指して、趙州を主体(我)、柏樹子と客体(物)というように分離して見たなら、この問答の奥義には迫れないのだと思います。
 禅の世界観によれば、主体も客体もありません。全てを一元で見ていきます。つまり、柏樹子も達磨も趙州も一つです。したがって、関山も隠元も一つです。推測ですが、『無門関』の第37則は、修行者たちにその世界を味わわせるためのものなのではないかと思います。
 このような見方は「山川草木悉有仏性(さんせんそうもくしつうぶっしょう」という仏教の根本思想に連なるものです。生きとし生けるものに仏が宿っており、その一点において全ては一つであり対等であるという世界観です。その意味では、“人”や“木”を“仏”に置き換えたとしても、何の齟齬も生じないことになります。質問をした僧も仏なら、答えた趙州も仏ということです。もちろん達磨も同様です。これが関山の受け止めであり、隠元の受け止めだったのではないでしょうか。

 以上、長々と私見を述べてきましたが、これはあくまでも理屈です。禅の世界に理屈は不要です。また、それが通じるものでもありません。禅で尊ばれるのはあくまでも「不立文字」であり、具体や体験、実践です。いくら駄弁を弄しても無駄であるばかりか、本質からだんだん離れてしまうのが落ちなのです。
 しかしそれが分かってはいても、身の程知らずな理屈をこね回す悪癖を止められないところに今の私の弱さ、至らなさがあるのだと思います。本当に難儀なことです。(〆)
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2017
04.23

人を木に変える ③/④

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img_2.jpg [関山禅師]

 達磨は、禅宗の宗祖とされる人物です。日本に伝わる禅宗には、臨済宗、曹洞宗、そして黄檗宗がありますが、いずれの宗派もその法脈は達磨に起原を持ちます。インドから(一説には中東から)中国に渡った達磨の法脈は、その後、二祖慧可(えか)、三祖僧燦(そうさん)、四祖道信(どうしん)、五祖弘忍(ぐにん)、六祖慧能(えのう)と受け継がれ、五家七宗を生みました(臨済宗、潙仰宗、曹洞宗、雲門宗、法眼宗、および臨済宗から分れた楊岐派と黄竜派)。日本へは平安時代から鎌倉時代にかけて、臨済宗と曹洞宗が伝わり、黄檗宗は、臨済宗の傍系として江戸時代に日本で定着しました。
 このように、禅宗にあって特別な存在であるのがこの達磨です。その意味では、達磨は立派に役割を果たしていることになります。趙州は、意図を持たずして衆生を救済していることの奇特さを柏樹子と達磨の在り方の中に見たのではないでしょうか。
 そこで隠元の逸話です。関山の残した一語が他の各本山に残されている語録より百千万倍も勝っているという隠元の真意はどこにあったのでしょうか。この禅問答には、もう一つ深い意味があるようです。
 『庭前の柏樹子の話に賊機あり』…。ポイントになるのはこの「賊機」、つまり「大泥棒のような恐ろしい根性」という言葉だと思われます。果たしてどういうことなのでしょうか?
 ここは再び、無文老師の言葉を頼りにするしかありません。


 われわれからあらゆる意志を奪い取り、あらゆる意欲を奪い取り、一切の妄想や執着をも奪い取り、生命さえも奪い取らずにはおかん、というような泥棒根性がこの趙州の一語の中にはあると、開山国師(関山禅師)は批評されたのである。


 禅の奥義を究めた高僧ならではの表現であり、私など取り付く島もないのですが、以下、いつものように身の程知らずな私見を述べたいと思います。
 趙州から「庭前の柏樹子」という答えを聞いた僧は、思いもしなかったその一語に唖然としたことでしょう。今風な表現をするなら、意表をつかれて“頭の中が真っ白になった”のではないでしょうか。僧は、この一語によって、あらゆる意志や意欲、妄想、執着などを奪い取られたのだと思います。言い換えるなら、「悟り」を得るためのきっかけを与えられたのです。
 関山は、そこを「大泥棒のような恐ろしい根性」と評したのではないでしょうか。そして隠元は、関山のこの境地を深く理解し、感嘆し、平伏したのではないでしょうか。間違っているかも知れません。(以下、④/④につづく)
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2017
04.19

人を木に変える ②/④

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DSC03117.jpg  [柏樹子(柏槇)]
 この禅問答についての山田無文老師(昭和に活躍した臨済宗の高僧)の言葉があります。


 柏樹子にはもちろん意識はない。大きくなろうとか、花を開いて実を結ぼうとか、涼しい木陰を作って人々を休ませてやろうなどという意志は毛頭ない。無心にして花を咲かせ、無心にして実を結ばせ、無心にして涼しい木陰を作って人々を憩わせているにすぎない。


  誰かが何らかの意図を持ってその場所に苗木を植えたのかも知れませんが、柏樹子自身に何の意図もないはずです。ただ無心にそこに立っているだけです。しかし、その花や実、そしてそれが作る木陰などは、動物たちや人間に施しを与えています。意図はなくても、生きとし生けるものに救いの手を差し延べています。仏教的に言うなら「衆生済度しゅじょうさいど)」しています。その意味では、立派に役割を果たしていることになります。
 では達磨の場合はどうでしょうか。達磨が中国に渡ってきたことに果たして意図はあったのでしょうか?
 古代中国の南北朝時代に達磨がインドから中国に渡って来たとき、梁国の武帝とのやり取りが古事として残されています。


   武帝:「私は長く寺を作り経を写させ僧を育ててきたが、どんな功徳があるか?」
 達磨:「無功徳(むくどく)」-功徳などありません
 武帝:「それならば仏教の大切な根本(真理)とは何か?」
 達磨:「廓然無聖(かくねんむしょう)」-全てはカラリとして、秋晴れの空のように雲一つありません。根本(真理)などという特別なものはありません。
 武帝:「私の前にいる者は誰か?」
 達磨:「不識(ふしき)」-わかりません
 武帝の問いに対する、何とも素っ気ない


 達磨の答えが印象的ですが、中でも「廓然無聖」という言葉に目が止まります。「全てはカラリとして、秋晴れの空のように雲一つありません…」とありますが、もう少し補足するなら、この世の本当の姿というのは、あらゆる分別を離れたところにあるということです。つまりは「仏教に根本とか真理などと呼べるものものはない」ということです。となれば、達磨がはるばるインドから渡って来たこと自体に意味はないということになります。(以下、③/④につづく)
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