2018
06.23

仏像に本物はあるか R ④/④

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 仏について、禅の思想を象徴するものとして、「金仏(こんぶつ)、炉を渡らず、木仏(もくぶつ)、火を渡らず 泥仏(でいぶつ)、水を渡らず、真仏(しんぶつ)、内裏(だいり)に坐す」という言葉も残されています。金属で造った鋳物の仏像は、炉の上を渡ったら熔けてしまう-、木で造った仏像は、火の上を通ったら燃えてしまう-、泥をこねて造った塑像の仏像は、水の中に入ったら熔けてしまう-、本当の仏は、それぞれの心の中に坐っている-。こんな意味になります。
 また、以前にも紹介しましたが、中国の唐の時代に活躍した丹(たん)霞(か)天(てん)然(ねん)という禅僧には、次のような逸話も残されています。
 ある寒い日、丹霞禅師は、暖をとるためのたき火がなくなったため、本堂にあった木造の釈迦如来像を持ち出し、燃やしてしまいます。それを見た仲間は驚き、咎めながら、その理由を問いただします。
 すると禅師は、「仏像を焼いて、その舎利(骨)を手に入れ、供養しようとしているのだ」と答えます。仲間は、木で造った仏像に舎利などある訳がないと反論しますが、禅師は、平然と「それなら、なおのことこれは単なる木片ではないか」と切り返します。「禅」の本質的な考え方と在り方を示す、たいへん興味深い話だと思います。
 禅は、基本的に偶像を認めません。したがって、禅寺では、決まった本尊というものがありません。釈迦如来像であったり、観音菩薩像であったり、地蔵菩薩像であったりします(一番多いのは釈迦如来像のようですが)。
 ただ、こんなふうに考えてくると何か味気ない感じもしてきます(私的なことではありますが、図らずも、我が家の菩提寺は禅寺なのです)。だから、そんなとき、私は次のように考えることにしています。
 仏像に「本当の姿」はない…。しかし、「仏」というものは必ずある…。私たちがそれを意識し、大きな憧憬や畏敬の念を抱いているときにもそれはあるし、また、そうではないときにも必ずある…。
 ところが、それが、あまりにも私たちの近くにあり、あまりに遠くにあるために、私たちはそれになかなか気づけないし、捉えられない…。これが、今の私の見解です。
 読者の皆さんは、どのように感じられますか?(〆)
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2018
06.18

仏像に本物はあるか R ③/④

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綱目店
 いつものように、ここからは独りよがりな思索です。「眼耳鼻舌身意」は、六(ろっ)根(こん)とも呼ばれます。具体的には六つの器官のことです。いずれも、私たちにとって大切な情報収集のためのツールです。
 そこで、「無」ということを「限定的」というように読み替えてみるのです。すると、これらの器官は、「限定的」にしか働くことがないという意味に変わってきます。
 なぜ「限定的」なのか?それは、いつも言うように、これらの器官が、私たち個人(自我)の選り好みによって左右され、偏り、歪んだものとして「限定的」にしか働かないという宿命を持つからです。だから、私たちは、対象物の「本当の姿」を捉えることができないということになる訳です。
 もっともこのように考えると、それはすべての事柄についても言えることに気づかされます。自分では、正しいと受け止め、正しいと思い、正しいと信じていたことが、実は自分の勝手な思い込みによるものであった、ということはよくあることです。いえ、人生などというのは、常にその繰り返しなのかも知れません。それを『般若心経』は、「眼耳鼻舌身意」は「無」つまりは「ない」と飛躍して喩えたのではないか?だから、そこから得られる「色声香味触法」などの情報も「無(ない)」としたのではないか?こんな理解です。
 考えてみれば、仏像というもの自体が、人(作者)の頭の中でイメージされ、人(作者)の手で作り上げられたものです。その芸術性が高く評価される運慶仏、快慶仏と言えども、仏の「本当の姿」ではありません。いわば仏の「仮の姿」です。仏の「本当の姿」などというものは、誰にも分かりません。誰も捉えられません。誰も語ることができません。それに向かって手を合わせることはあるとしても、手を合わせる人(自分)の一方的な思いがあるだけです。(以下、④/④につづく)
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2018
06.13

仏像に本物はあるか R ②/④

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 ところが、作品を観ながら、ある疑問も沸き上がってきました。それは、仏像の「本当の姿」とは一体、何かというものでした。    
 繰り返しになりますが、法華堂の「不空羂索観音菩薩像」にしても、薬師寺の「聖観音菩薩像」にしても、また法隆寺の「釈迦如来坐像」にしても、私には私なりに、これらの仏像に対して抱いてきたイメージがありました。ところが、晴暘の捉えた仏像は、そのイメージとは異なるものでした。
 イメージというのは、それぞれの主観の中から生み出されるものです。一つ一つの仏像に対するイメージというのは、観る側の都合によって一方的に作り上げられるものであり、実体のないものです。
 したがって、晴暘の捉えた「不空羂索観音菩薩像」(以下、「不空羂索観音」とします)の姿も、私がイメージした「不空羂索観音」の姿も、「不空羂索観音」ではありますが、いずれも本当の「不空羂索観音」ではないということです。このことに一つの例外はないと思います。一つの仏像から受ける私たちのイメージは、千差万別です。そして、そのどれもが正しく、どれもが正しくないのだと思います。言い方を換えるなら、私たちは、誰も仏像の「本当の姿」を捉えることができないということになります。
 こんな思いにふけっているうちに、ふっと『般若心経』の経文にある、「無眼耳鼻舌身意(むげんにびぜつしんい)」という文言が思い浮かびました。
 「無眼耳鼻舌身意」。直訳すれば、「眼もなく、耳もなく、鼻もなく、舌もなく、身もなく、意識ものなく」ということになりますから、ないない尽くしで何のことがさっぱり分かりません。おまけに、経文では、次に「無色声香味触法(むしきしょうこうみそくほう)」と続きますから、ますます訳が分からなくなります。「姿もなく、声もなく、香りもなく、味もなく、感覚もなく、自分もなく」というのですから、一体全体、何のことを言っているのか、まさに混乱もここに極まれりです。(以下、③/④につづく)
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2018
06.08

仏像に本物はあるか R ①/④

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 少し前のことになりますが、「飛鳥園仏像写真展」を鑑賞する機会がありました。「飛鳥園」というのは、奈良にある写真館の名称です。創業は、大正時代まで遡るということですから、いわゆる老舗の写真館です。
 読者の中には、ご存じの方もあるかと思いますが、私たちが日ごろ目にする写真集やカレンダー、あるいは教科書、資料集などに掲載される仏像写真の多くが、この「飛鳥園」の撮影、監修になるものです。
 創業者の小川晴暘(おがわせいよう)(以下、晴暘とします)は、初め、洋画家になることを目指しますが、その後、「写真で仏像を描く」、つまり写真で仏像を表現することを決心し、この道に専心したようです。
 配布されていた資料には、次のように紹介してありました。
 写真とは記録であるという認識が主流であった当時、これは(写真で仏像を描くという晴暘の発想は)、たいへん斬新であり、革命的なことだった。絵を描く筆を捨て、絵の具を捨て、職も捨てて求めた夢。この夢を実現する城となったのが、いまも続く飛鳥園という写真館である。
  仏像写真にかける晴暘の創業者としての熱意が思い起こされ、感銘を覚えました。
 写真展会場に一歩足を踏み入れると、そこには、私がこれまで観たこともない、感じたこともない仏像たちの姿が写し出されており、思わず息を呑みました。
 法華堂(東大寺三月堂)の「不空羂索観音菩薩(ふくうけんじゃくかんのんぼさつ)像」、「月光菩薩(がっこうぼさつ)像」、薬師寺の「聖観音菩薩(しょうかんのんぼさつ)像」、法隆寺の「釈迦如来(しゃかにょらい)坐像」など、いずれもこれまで私が見慣れた仏像たちとは異なる表情で捉えられていました。
 余談ですが、私は、これらの仏像たちには、毎年のようにその実物に触れる機会がありました。それぞれの仏像に対するイメージは、それなりにできているつもりでした。それだけに、晴暘の表現する仏像との出会いは、新鮮な驚きを隠せませんでした。
 晴暘の撮影した仏像たちは、すべてモノクローム(白黒)写真でした。異なる印象を受けたのは、そのことも関係しているかも知れません。また、撮影されたのは90年近く前ことでもあり、経年による仏像自体の変化もあるかも知れません。
 しかし、私には、それよりも、晴暘が施した、被写体への照明(ライティング)や撮影角度(アングル)、あるいは焦点(ピント)合わせのなどの努力や工夫に心を揺さぶられる思いでした。手間をかけ、時間をかけ、まさに「写真で描く」感覚で、一つ一つの仏像をカメラに収めたのだろうと思います。(以下、②/④へつづく)

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2018
06.03

化石の説法を聴く R ②/②

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 このように、それぞれに「役割」は分かれているとしても、その根本を辿るなら、すべてのものが平等です。何の相違(差別)もありません。差別の世界の中に平等の世界が隠れているのです。いわゆる「差別即平等(さべつそくびょうどう)」です。
  こんなふうに考えると、森羅万象が、ほんとうに愛おしく見え、尊く思えてくるから不思議です。
 仏教思想の特徴は、究極の「性善説」にあると言われますが、私は、その所以は、『般若心経』に示される世界観にあると思っています。その意味で、化石の伝える真実こそ、仏教の世界観を補完するものとして、たいへん興味深く受け止めました。
 「禅」には「無情説法(むじょうせっぽう)」という言葉があります。動物や植物、鉱物なども含めなど、心を持たぬものも、無言のままに真理を説いているという考え方です。その意味では、化石の伝えるこの真理は、「化石の説法」とも言えるのではないでしょうか。
 また、別の機会ではありましたが、「人間が、永遠なるものや絶対的なものに憧れ、それを求めるのは、自らが限りあるものであるからである」という言葉に接し、考えさせられるところがありました。
 思えば、私の「もう一人の自分」探しも、この言葉のとおりだな思いました。「もう一人の自分」などという想定それ自体が、自己の有限性を認めることであり、同時に永遠なる自己に出会うことで「救われたい」という心の動きなのだと思います。
 こんなふうに考えてくると、「もう一人の自分」を探し当てたいと念じる力の源こそは、「自分が救われたい」という、まさに私自身の「煩悩」に根ざしたエネルギーであるということにも気づかされます。
 仏教では、よく「煩悩即菩提(ぼんのうそくだい)」ということを言います。「煩悩」と「菩提」(「悟り」)とは表裏一体のものであるということを言っているのだと思います。
 いずれにしても、いのちを持つものの身体の99.9%が、死後も変化をしながら「他者のいのち」として使われていくという事実には驚かされます。どのような形で「他者のいのち」として現出しているのかは、誰にも分かりません。しかし、間違いなく現出しています。
 「化石の説法」に耳を傾ける限り、私が求めている「もう一人の自分」も、この周辺にあるように思えてきます。
 読者は、「化石説法」は、どのように聴こえてくるのでしょうか。(〆 )

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