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2019
03.30

朽ちた仁王像 ①/③

Category: 未分類

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 友人と仏教史上に『法華経』が誕生した経緯について話題としていたとき、 一つの疑問が示されました。
 『法華経』の根本思想は「皆成仏道(すべての者が仏になれる)」です。最澄は、これを根本経典に比叡山延暦寺を興しました。ここで学んだのが、法然、親鸞、栄西、道元、日蓮ら、日本仏教の祖師たちです。彼らは、この思想を礎に、それぞれ各宗派の教義を展開していったわけですから、だれでもが例外なく仏になれるという思想は、日本仏教の底流をなすものと言ってよいかと思います。いわゆる「一切衆生悉有仏性」です。
 ところが、浄土宗や浄土真宗にあっては、「南無阿弥陀仏」の名号に象徴されるように、自己の外に仏(阿弥陀如来)を置いています。友人の疑問は、仏を自己の外に置く浄土門の教義は、『法華経』が説く思想に離反しているのではないかという点にありました。
 端的に言うなら、本来仏である私たちが、別に仏を立て、それに帰依するなど不合理ではないかということです(ちなみに友人の菩提寺は浄土宗です)。

 ところが、それに前後して、別の友人がFacebookでたいへん興味深い情報を寄せてくれました。とある寺院に安置されている仁王像についての情報でした。運慶作とも伝わる由緒ある仁王像が、明治初期の仏教排斥運動を受け、往時の近隣住民(檀徒も含まれるか)の手によって、寺の前を流れる川底に埋められ、難を逃れたというものでした。
 Facebookには、近年、改めてお堂に安置されたこの仁王像の写真が掲載されていました。阿形と吽形を一対とした、かなり大きな彫像のようで、写真からは、身の丈、九尺五寸との説明も読み取れました。(以下、②/③につづく)
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※クリックすると拡大して見られます。

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