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2018
07.28

扇子は扇子ではないR ④/④

Category: 未分類

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 では、後半は、どういうことなのでしょう。否定した後、「ゆえにこれをAと名づく」と肯定していく…。弁証法の論法として知られる「否定の否定」ではなく、いわば「否定の肯定」です。「否定の否定」は「肯定」(もちろん単純な「肯定」ではありませんが)ですが、「否定の肯定」は、すべてのものを「否定」しながら、結局は、すべてを「肯定」しているのですから「絶対肯定」とも言えます。考えれば考えるほど、混乱してきます。
 ただ、少し冷静になって考えると、次のような思いも沸き上がってきます。もし、前半の「AはAに非ず」に留まっていたら、生活はひどく不便なものになってしまいます。言葉や文字、「概念」や「論理」があるからこそ、私たちは、現実世界を、当たり前のこととして生きていくことできます。

 ところで、禅には、おびただしい数の「禅語」があります。禅の先人がその心や悟りの境地を短い一句の中に込めたものです。「日々是好日(にちにちこれこうにち)」、「本来無一物(ほんらいむいちもつ)」、「喫茶去(きっさこ)」、「一期一会(いちごいちえ)」などの墨跡が、床の間や茶室に掲げられているのを見られた方も多いのではないでしょうか。これらは「不立文字」を旨とするその思想とは矛盾する禅の一面ではあります。
 結局、禅では、言葉や文字、「概念」や「論理」が、決して物事の本質を表す手段ではないこと、その意味では、歪みや偏りといった危うさも含んでいることをしっかり認識した上で、注意深く扱うように警告しているのだと思います。そのために、敢えて「否定の肯定」という手法を取っているのではないでしょうか。
 よく分かりませんが、今は、こんな理解をしているところです。読者には、どのように受け止められるでしょうか。

 扇子を題材にしながら、理屈っぽい話で、ますます暑苦しくしてしまったことをお詫びし、今回のブログを締めさせていただきます。(〆)
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