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2018
06.18

仏像に本物はあるか R ③/④

Category: 未分類
綱目店
 いつものように、ここからは独りよがりな思索です。「眼耳鼻舌身意」は、六(ろっ)根(こん)とも呼ばれます。具体的には六つの器官のことです。いずれも、私たちにとって大切な情報収集のためのツールです。
 そこで、「無」ということを「限定的」というように読み替えてみるのです。すると、これらの器官は、「限定的」にしか働くことがないという意味に変わってきます。
 なぜ「限定的」なのか?それは、いつも言うように、これらの器官が、私たち個人(自我)の選り好みによって左右され、偏り、歪んだものとして「限定的」にしか働かないという宿命を持つからです。だから、私たちは、対象物の「本当の姿」を捉えることができないということになる訳です。
 もっともこのように考えると、それはすべての事柄についても言えることに気づかされます。自分では、正しいと受け止め、正しいと思い、正しいと信じていたことが、実は自分の勝手な思い込みによるものであった、ということはよくあることです。いえ、人生などというのは、常にその繰り返しなのかも知れません。それを『般若心経』は、「眼耳鼻舌身意」は「無」つまりは「ない」と飛躍して喩えたのではないか?だから、そこから得られる「色声香味触法」などの情報も「無(ない)」としたのではないか?こんな理解です。
 考えてみれば、仏像というもの自体が、人(作者)の頭の中でイメージされ、人(作者)の手で作り上げられたものです。その芸術性が高く評価される運慶仏、快慶仏と言えども、仏の「本当の姿」ではありません。いわば仏の「仮の姿」です。仏の「本当の姿」などというものは、誰にも分かりません。誰も捉えられません。誰も語ることができません。それに向かって手を合わせることはあるとしても、手を合わせる人(自分)の一方的な思いがあるだけです。(以下、④/④につづく)
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※クリックすると拡大して見られます。

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