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2018
08.27

仏飯の功徳 ②/③

Category: 未分類
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 ところが、しばらくすると、私の心の中に、もう一つの想いが湧いてきました。
「やはり、いつものようにしよう…。」
 私は、台所に移動しました。そして所定の場所に置かれていた空の仏器に、炊きあがったばかり米飯を盛り付け、茶器と共に位牌の前に置きました。その後には、いつものように『般若心経』を読み上げました。不思議なのですが、そのとき、何か心が澄んだような気持ちになりました。
 そのとき、ふっと一つのことが頭を過ぎりました。それは、仏になったご先祖様は、炊きあがった米飯が供せられることにそんなに執着されるだろうかという疑問でした。
 そもそも、私たちが仏をイメージするとき、先ず思い浮かべるのは絶対的な「慈悲心」であり「寛容心」ではないでしょうか。都合のよい解釈かもしれませんが、その仏が、凡夫の些細な失敗や怠慢などに対して、苛立ったり、怒ったり、まして罰を当てたりするだろうかということです。
 だとするなら、私たちが仏や先祖に仏飯を供える意味は、いったいどこにあるのでしょうか。以下は、私見です。
 仏飯のお供え、それは私自身に対するものだったのではなかったか…、これが私の見解です。仏飯を供えたとき、私の心中に平穏が保たれたことは先に記した通りです。それをしなかったら、私の中には、きっとなにがしかのモヤモヤが残ったのだと思います。となれば、仏飯を供えることの意味は、仏や先祖ではなく、私自身の内にあったことになります。

 中国の南北朝時代、達磨がインドから中国に渡って来たとき、梁国の武帝との間に、興味深いやり取りがあったことを思い出しました。武帝が「私は長く寺を作り、経を写させ、多くの僧を育ててきたが、どんな功徳があるか?」と問いかけたのに対して、達磨は「無功徳(むくどく)」と答えたあのやり取りです。
  「功徳」を辞書で引くと、「善行の結果として与えられる神仏の恵み、ご利(り)益(やく)」とありました。したがって「無功徳」というのは、「利益などない」ということです。武帝の質問に対する達磨の答えは、見返りを求めて為すことなど、仏道の本道でないという手厳しい教示だったというわけです。(以下、③/③につづく)

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