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2018
04.19

鈴木大拙の思想 ④/④

Category: 未分類

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 ところで、先に神というのは、妄念・妄想の産物であるといいましたが、仏もこれと同じではないかと思われる読者があるかも知れません。そして「神がいない」のであれば「仏もいない」のではないかと詰問したくなるかも知れません。そこで、以下、私見を述べたいと思います。
 仏はいない。しかし、仏は充ち満ちている。これがその答えです。仏教特有の「空」と考え方です。腑に落ちないという声が聞こえてきそうですが、残念ながら、それ以外に言いようがありません。「有るようで無い」「無いようで有る」、これが仏です。
 旧約聖書における神と仏教における仏には、もう一つ大きな違いがあります。神と人間の間にあるのは上下関係(縦のつながり)ですが、仏と人間(正確には生きとし生ける物)との間にあるのは、あくまでも水平関係(横のつながり)です。つまり、すべての人間は絶対的な平等関係にあり、一人一人が自由で、完璧な存在であるということです。換言すればすべての人間が仏である」ということです。互いを肯定し合い、尊重し合っていこうとする高邁な精神は、ここから生まれてくるのだと思います。
 番組の最後の場面で、岡村氏から次のような言葉がありました。大拙の思想を端的に表すものとして心に残りました。要約して紹介します。


 大拙にとっては、宗教も宗派もない。人間は単に、「二本足で立っているもの」ということであり、大拙は、そのような人間の本来の働きを実感として持っていたのだと思う。(中略)私たちは、二つの次元が同時に動いている。その一つが「生きている」ということであり、その一つが「生かされている」ということである。そのことを忘れてはならないと思う。


 以上、テレビの視聴を通して印象に残った三つの場面について綴ってきましたが、最後に、昭和37年(大拙92歳)、NHKのテレビインタビューに出演したときの映像に残る大拙自身の言葉を紹介して結びにしたいと思います。「西洋人が禅に感じる魅力とは何だと思うか?」という問いに対する大拙の答えです。 


 今は何にでも束縛されてしまう。時間に束縛され、組織に束縛され、いろいろな点で束縛され、本当の自由の働きができない。人間は元来自由がなかったらもう人間ではないから、人間に帰ろうという動きがどこからか出てくると思う。それに対して、禅は最も適切な訓練であり、修行だということに気づいたのだろうと思う。
 東洋の自由の意味は、自ずからなる、自ずからに由るということ、ものに束縛が何もない、そのものになって、本体になって働くというのが自由だ。西洋のリバティ[liberty]やフリーダム[freedom]には、そういう意味はない。


 自由についての東洋と西洋の受け止め方の相違が、そのまま仏教(とりわけ禅)とキリスト教の教義の違いに反映しているという、たいへん興味深い指摘だと思います。
(〆)    
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  ※クリックすると拡大して見られます。                                              

次回は「ゼロにならない心 R」を掲載します。ぜひご訪問ください。 

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