2018
04.15

鈴木大拙の思想 ③/④

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 妄念というのは、実体がないのにあるように勘違いして起こる意識であり、妄想とはそれをもとに膨らむ根拠のない思考のことです。その意味では、私たちが抱く妄念・妄想の最たるものが神という概念であるとも言えます。
  「その前に神様は、いったいどこで何をしておられたのか?」というのは、大拙のいわばブラックユーモアでしょう。仏教(とりわけ禅)には、神(この場合は創造主)などという絶対者は存在しません。仮に存在していたとしても、神でさえ「諸行無常」「諸法無我」という宇宙の摂理の下にあり、時間や空間の影響から逃れることができないということです。
 では、アダムとイブの話はどうでしょうか。「リンゴをもう一度かじればいい」という大拙の深意はどこにあるのでしょうか。
 大拙の言うように、もしアダムとイブがリンゴをもう一度かじったとしたら、果たして神はどうしたでしょうか?自らが造り出した人間がその命令を無視するなど、全く想定外の行為のはずです。乱暴な想像ではありますが、神はパニックを起こし、恐らくは何もできなかったのではないでしょうか。
 ここで大拙の言いたかったことは、何だったのでしょう?
 それは、もう一度リンゴをかじり、そのおいしさを十分に味わえばいいということではないでしょうか。
 仏教(とりわけ禅)では、人間は、常に自(おの)ずからに由(よ)という在り方が尊重されます。外界の何ものからも、騙されたり束縛されたりすることのない在り方です。これが「自由」についての仏教の考え方です。アダムとイブは、思う存分にリンゴを味わい、今ここに楽園があることをしっかりと噛み締めればいいということです。「昨日」は記憶の世界であり、「明日」は想像の世界です。常にあるのは「今」です。そして「今」の連続です。大切にすべきは「即今只今(そっこんただいま)」であるということなのだと思います。
 この二つの話は、つまるところ「神はいない」ということを言っているのではないでしょうか。大拙は、「禅とは自己の存在の本性を見抜く術であって、それは束縛からの自由への道を指し示す」と述べています。想像ではありますが、自己の存在の本性を見抜いた先には、神などという妄念・妄想は跡形もなく消滅するということなのでしょう。大拙の思想の核心は、まさにこの二つの話の中に示されているように思われます。(以下、④/④につづく)
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