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2018
04.11

鈴木大拙の思想 ②/④

Category: 未分類
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 二つ目の場面です。
 大拙に「手を出しなさい」と言われた。手を出すと「きれいな手じゃないか。仏の手じゃないか」と言われた。そのときは「何で私の手が仏の手なのか?」と思ったが、その手が自由に動くことを指摘しながら、「これは、あなたが作った手か?あなたの親が作った手か?」と聞かれて、言葉が詰まった。
 手を出すように言われ、いきなり「これは誰の手ですか?」と問われたら、私たちは何の疑いもなく「わたしの手です」と答えると思います。それを「仏の手」と言われたらどうでしょう。岡村氏の戸惑いはよく理解できます。
 しかし、「あなたの手は誰がつくったか?」と問われたらどう答えるでしょうか。「わたしがつくった」と答える人はいないだろうと思います。また、「父と母がつくった」と答える人もいないでしょう。では、誰だと言ったらよいのでしょうか?
 先の話にも重なりますが、それは、宇宙に働く力(存在発現言力)としか言いようがないものです。英語ではSomething greatですが、仏教では、それを「仏(仏性)」「法(法性)」等と呼んでいます。「」あるいは「」という言い方もあります。
 したがって、「誰の手か?」と問われたとき、「仏の手だ」と答えても何の齟齬もありません。いえ、このように考えを進めれば、私たちの体そのものが「仏の体」ということになります。つまり、私たちは「仏の分身」であるということです。大拙は、そのことを伝えようとしたのだと思います。

 三つ目の場面です。
 キリスト教では天地創造の神が「光あれと言ったら夜が明けた」とされるが、大拙は次のように言った。「その前に神様はいったい何をしておられたのか?どこにおられて何をされていたのか?」と。
 また、楽園を追放されたアダムとイブについて問われると、「リンゴをもう一度かじればいい」と答えた。これは、本来を確認するということだ。
 仏教(禅)では、固定したものとして捉えない。ストーリーとして考えない。自由ということのもとがそこにあると言いたかったのだと思う。

 言うまでもなく旧約聖書にある「天地創造」の話は人間がつくったものです。当然、アダムとイブの話も創作です。
 一方、仏教では、あらゆるものごとは刻々と変化し続け、何ものにも依存しないで存在しているものはないと説きます。いわゆる「諸行無常」「諸法無我」です。そして、存在には実体はないとして、あらゆる妄念・妄想を否定します。(以下、③/④につづく)

64-8落合池 
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