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2018
03.22

「蜘蛛の糸」を考える ②/③

Category: 未分類

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 カンダタは、一匹の小さな蜘蛛に出会ったとき、一度は踏み殺そうとします。しかし、次のように思い返してそれを止めます。原文で紹介します。


 「いや、いや、これも小さいながら、命のあるものに違いない。その命を無暗(むやみ)にとると云う事は、いくら何でも可哀そうだ。」


 一匹の蜘蛛の命を助けたところで、他者から称えられるわけでもなければ、褒められるわけでもありません。何の見返りもありません。しかし、カンダタは蜘蛛の命を助けました。釈迦がカンダタを救うためにクモの糸を差し伸べたのは、その内に宿る善心を垣間見たからだと思います。
 このとき、極悪人であったカンダタに芽生えた善心は、「仏心」とも呼べるものだと思います。「慈悲心」と言ってもいいでしょう。自らの命と蜘蛛の命とを同等のものと見なしたのだ思います。カンダタも、常にこのような心を持って行動していれば、地獄に落ちることはなかったはずです。
 この場面を「性善説」に沿って解釈するなら、彼が蜘蛛に対して示した心情は、ふだん悪心に覆い隠されていた善心(仏心)が顕わになったものと言えるのではないでしょうか。そのとき、カンダタの内には、悪心の源となる煩悩(我欲・我執)は消えていたのだと思います。極端かも知れませんが、その時点でカンダタは仏になっていたのだと思います。

  ところがカンダタは、蜘蛛の糸に掴まり、眼下に大勢の罪人の姿を見たとき、次のように喚(わめ)きます。


 「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己(おれ)のものだぞ。お前たちは一体誰に尋(き)いてのぼって来た。下りろ。下りろ。」


 蜘蛛に示したカンダタの善心(仏心)は、儚くも悪心によって遮られてしまったわけです。それは瞋恚(しんい)の炎でした。

 相対差別の世界にいる私たちは、いつも善心だけで生きられるわけではありません。ときには悪心が湧き上がることもあります。貪り、憎しみ、怒り、怨み、嫉みなどの感情がそれです。そして、それを行動に移せば、犯罪にもなるでしょう。
 しかし、ここで大切なことは、いくら瞋恚の炎が燃え上がったとしても、善心(仏心)が消滅したのではないということです。どのような状況下でも、善心(仏心)は存在しているというのが「性善説」の主張です。(以下、③/③につづく)

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※クリックすると拡大して見られます。


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