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2018
03.14

二人のイリーサ R ④/④

Category: 未分類
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 仏教には「煩悩即菩提ぼんのうそくぼだい)」という言葉があります。「煩悩」と「菩提(悟り)」は同じものだという考え方です。しかし、だからといって、すべてを欲望(煩悩)にまかせてで生きていけばいいというわけではありません。欲望のみに身と心をゆだねた生き方に、どんな末路が待ち構えているか、説明の必要はないと思います。
 山田無文老師は、「無門関」の講義の中で、次のように述べています。
 欲望の満足のために生活していると、満たされない、救われないものがある。そういう淋しいものがいわゆる自我ではないだろうか。…何か不満がある。生き甲斐がないというのは、眠ったまま物言わない、もう一人の自分を求めているからではないだろうか。…それが宗教心の芽生えというものであろう。
 白隠禅師は、その『坐禅和讃(ざぜんわさん)』の冒頭と末尾で、「衆生本来仏なり(しゅじょうほんらいほとけなり)」「衆生の他に仏なし(しゅじょうのほかにほとけなし)」と述べています。「仏心」「仏性」は、外から与えられたり、教えられたりしてあるのではなく、だれもが生まれながらにして持っているという確信を述べたものと受け止めています。
 一方で、「煩悩無尽誓願断ぼんのうむじんせいがんだん)」という言葉もあります。煩悩は尽きない…、だからからこそこれを断つことを願い、誓うという訳です。煩悩に限りはありません。問題は、煩悩を持ちながらそれをいかに正しい方向に向けてコントロールしていくかだと思います。
 仏教(とりわけ「禅」)は、人間には誰でも、その制御機能がもともと具わっていると強調します。制御機能ということを具体的に言うなら、自分の心の中に深く沈降している「仏心」あるいは「仏性」に気づき、それに沿って行動していくことだと思います。
 冒頭の「二人のイリーサ」に話を戻します。物語の最後の部分には、蔵の宝物を町の人に与えた後のイリーサの心情が、「気持ちが『すーっ』と楽になって、心が温かくなるのでした」と描かれています。
 これこそ、まさに無文老師の言う「宗教心」の芽生えと言えるものなのでしょう。イリーサは、自分自身の中にある「宗教心」、いえ「仏心」、「仏性」に気づいたのです。欲望を恣にした末にたどりつた安楽と言えるのではないでしょうか。この場合も「煩悩即菩提」と言えます。
 繰り返しになりますが、結局「禅女離魂」の話と同じように、イリーサは一人なのだということだと思います。「禅」の思想に二元論はありません。
 最後に、再び山田無文老師の言葉を引用して、今回のブログの締めとしたいと思います。『六祖壇経』についての講義の中にある言葉です。
  善人も悪人も、賢い人も愚かな人も、人間も動物も、その本性は同じ仏の仏性に帰する。…凡夫と仏は同じものである。迷うときにはこれを凡夫と名付け、悟るときにはこれを仏と名付ける。そこに仏教の本質がある。
〆)
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