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2018
02.10

仏像を焼く ②/④

Category: 未分類

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 これまでも紹介してきましたが、禅には「金仏(こんぶつ)、炉を渡らず、木仏(きぶつ)、火を渡らず 泥仏(でいぶつ)、水を渡らず、真仏(しんぶつ)、奧裏に坐す」という言葉が残されています。金属で造った鋳物の仏像は、炉の上を渡ったら熔けてしまう…。木で造った仏像は、火の上を通ったら燃えてしまう…。泥をこねて造った塑像の仏像は、水の中に入ったら熔けてしまう…。本当の仏は、それぞれの心の中に坐っているのだから、その仏を己の中に見出すことが大切である…。このような意味になるようです。
 確かに、このような考え方に立てば、自分の外にわざわざ仏像を置き、それを崇拝するなど必要などないことになります。禅宗の寺院で特定の仏像が置かれることがないのは、このような仏像、あるいは「仏」そのものに対する特有の思想があるからだと思われます。その深意は、いったいどこにあるのでしょうか。
 丹霞禅師にまつわる逸話には次のような後日談があります。
  ある人が真覚大師に尋ねた。
「木仏を焼いたのは丹霞なのに、僧の方に何の罪があったのでしょう?」
 すると大師は次のように言った。
「僧には仏しか見えていなかった」
人は、再度、大師に尋ねた。
「では丹霞はどうだったのでしょう?」
大師は答えた。
「丹霞は、木を焚いたのだ」

 意味深長なやり取りではあり、軽々な解釈は慎まなければならないと思いますが、僧の罪が「仏しか見えていなかった」という件の中に鍵があるように思います。丹霞禅師にとって単なる「木」であったものを「仏」としたことにどのような罪があると言うのでしょうか。
 この論旨を明らかにするために、「『禅の語録』導読」では、『二入四行論(にゅうしぎょうろん)』にある一段が紹介されていました。次がその意訳です。
 法には大きさも姿かたちも価値の上下も無い。たとえば家の庭に大きな石があるとする。その上で寝ようが坐ろうが好き放題だ。驚きもしなければ、恐れもしない。
 ところがその石の上に仏の絵を描いたとする。すると心はそこに「仏」という観念を造り出して、たちまち罰があたるのが怖くなって、その上に坐れなくなってしまう。石はそのままなのに、汝の心のためにそうなってしまうのである。心とは何のようなものか?
 そう、すべては汝の心意識の筆が画き出し、それに対して自分で勝手に慌てたり、怖がったりしているだけのものである。

 ここで言いたいのは、次のようなことなのだと思います。(以下、③/④につづく)

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※クリックすると拡大して見られます。

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