2018
02.02

清々しい顔 ③/③

Category: 未分類



奈良の~1
 ところが、私たちがそんな思いに浸っているとき、私たちも自身も狩人と同じように「自己矛盾」に陥っていることに気づかされます。この物語の結末から私たちが味わっているのは、つかの間の安らぎであり、つかの間の癒しであるということだと思います。
 では、果たして、それを解く鍵はあるのでしょうか?あるとしたら、それはどのようなものなのでしょうか?

 前回の本ブログの中で、「『両手を合わせる』ことは、私たちの毎日が大きな矛盾を抱えていることへの自覚、そして多くの人やものたちに支えられていることへの感謝を姿として表すものである」と書きました。
 食事の前と後に、両手を合わせ、他者から命をいただいていることへの懺悔と感謝の気持ちを表す…。これも一つの鍵になり得るのではないか…。前回のブログの繰り返しになりますが、これが今の私の見解です。
 それにしても、この物語に描かれる親鹿の潔い態度には、心を打たれます。釈迦の前世を説話として綴った『本生譚(ほんじょうたん)』の中にある「捨身飼虎(しゃしんしこ)」の話を思い出します。飢えた虎の親子を助けるために、薩捶王子(さったおうじ)が、断崖から身を投じ、その肉を食べさせるという話です(余談ですが、法隆寺の国宝「玉虫厨子(たまむしのずし)」には、その場面が描かれています。また、誤解のないように申し添えますが、釈迦は実在の人物です。「本生譚」はあくまでも説話として残されたものです)。
 親鹿と薩捶王子とが重なっ見えてきます。それは、まさに「仏の世界」の中の話です。
   そこで、以下は、いつものように独りよがりな解釈です。狩人は、約束を違えなかった親鹿の姿の中に「仏」を見たのではないか…。そして、そのとき、自らの中に眠っていた「仏」に気づかされたのではないか…。その意味で、親鹿を逃がすという行為は、「仏」の行為ではなかったか…。「清々しい顔」とは「仏」の顔ではなかったのか…。
 あまりに「仏」という言葉を使い過ぎました。反省しなければなりません。(〆)

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