2018
01.29

清々しい顔 R ②/③

Category: 未分類

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 人間の命、動物の命、植物の命、魚の命、虫の命、そして微生物の命など、様々な生き物には命があります。命があるという点では、すべては平等です。それぞれが、懸命に生きています。
 チベット仏教の指導者、ダライ・ラマ14世が述べた「命あるものは、人間だけでなく、小さな虫けらに至るまで、苦しみから逃れ、幸せを得たいと望んでいる」という言葉に心を揺さぶられます。
 しかし、いつも言うように、人間は、他者から命をいただかなければ、生き長らえることはことはできません。物語の中で、狩人は、鹿の親子を逃がします。けれども、彼が生きていくための術は、鹿を含めた野生の動物たちを捕らえることにあります。それは、妻を養うため、また何より生まれたばかりの我が子を育てるため、避けては通れない宿命でもあります。
 狩人が物語の最後に見せた「清々しい顔」も、結局は、つかの間のことなのだと思います。時間は、その流れを止めません。狩人に課せられている現実も同じだと思います。
 この狩人がその後、どのように生きていったかは、知るよしもありません。けれども、そのことを生業にして生きていく限り、狩人は、次の日からまた、動物を追い、捕らえ続けることになるのだと思います。たいへん意地の悪い言い方だと思いますが、その意味では、このときの「清々しい顔」も、狩人が「自己矛盾」に陥っている姿と見ることも可能です。また、せっかく捕らえた獲物をみすみす逃するなど、馬鹿げているという批判もあるでしょう。
 しかし、その一方で、人間の命と鹿の命を一つのものと見た狩人に対して、尊崇の念も沸き上がってきます。狩人の心に宿ったと思われる心こそ「自他一如」の心、言葉を換えるなら「仏心」です。これが、この物語が伝えようとしている主要テーマだと思います。(以下、③/③につづく)

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