2017
02.14

吹き消された灯 ③/③

Category: 未分類
 PB030270.jpg
 師 龍潭和尚の講義を終えた後、学僧 徳山は暗闇の中にありました。そしてその直後に龍潭和尚の差し出した紙燭によって、明りを得ました。ところが、その明かりもすぐさま和尚によって吹き消され、再び闇の中に戻ることになりました。「暗」から「明」へ、そして「明」から「暗」への転換です。
 その時の徳山の心境はどのようだったでしょうか。仮に、私が徳山の立場なら、「暗」から「明」に移った時点で、龍潭和尚の親切心に感じ入り、心までも明るくなったことでしょう。そして、師への深い感謝の念が湧き上がってきたことでしょう。
 次に「明」から再び「暗」に移った場面です。このときには、龍潭和尚の行動の意図が分からず戸惑い、心に動揺が生まれたことでしょう。そして、そのうちには龍潭和尚への反感の念も湧いてきたかも知れません。
 しかし、よくよく考えれば、「明」も「暗」も私たちの受け止めによるものです。明るかろうと暗かろうと、客観的な事実に何の変化もありません。そこにあるのは、龍潭和尚に暇乞いをする徳山と、徳山を見送る龍潭和尚だけです。もちろん、二人の周辺にある状況にも変化はありません。
 このように見ていくと、「明」も「暗」も、結局は私たちの主観に由来するものであり、客観とは別物であることが分かります。この問答では、そのことを伝えたかったのかも知れません。
 また、客観的事実は一つであっても、受け止め方次第で意味は変わってきます。同じ部屋にいても、明るいときは何とも思わなかったのに、暗くなると途端に恐怖心に襲われることがありますが、これなどはその一例でしょう。仏教では、これを妄念・妄想と呼び、やかましく「莫妄想(まくもうそう)(妄想を抱くことなかれ)」を説きます。
 考えてみれば、私たちは事ほど左様に感覚(眼・耳・鼻・舌・身など)に引きづられ、心が弾んだり、沈んだり、あるいは怒りに打ち震えることがあるものです。しかし、いつも言うように、私たちの感覚は独立した形では機能しません。それが働くとき必ず「わたし(自我)」の影響を受けることになります。どの機能も「わたし」の好みや癖、都合などによって、本来の働きが抑えられてしまいます。そのため、いつも正しい認識や知見を導き出せるとは限りません。それが他者との間に行き違いや不和、さらには争いを生むこともあります。
 龍潭和尚は、そんな人間が抱える危うさを無言で説いたのかもしれません。そして、徳山もそのことを合点したのかも知れません。
  いずれにせよ、これも一つの見解です。読者は、この禅問答からどのようなメッセージを受け止められるのでしょうか。(〆)

                                         

54-8.jpg

※クリックすると拡大して見られます。

次回は「乾屎橛(かんしけつ」を掲載(4回配信)します。ぜひ、ご訪問ください。
スポンサーサイト

トラックバックURL
http://zitaichinyo.blog.fc2.com/tb.php/633-ee767b79
トラックバック
コメント
管理者にだけ表示を許可する
 
back-to-top