2017
02.10

吹き消された灯 ②/③

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 その頃、学僧であった徳山は『金剛経(こんごうきょう)』には精通していたものの、まだ悟りが開けず、迷いの真っただ中にあったと言います。振興の仏教として登場してきた禅の思想ではありましたが、龍潭和尚の説法に触れ、まさに光明を見る思いだったと想像されます。そのことは龍潭和尚が、紙燭を手に登場してきたシーンにもなぞらえることができるかと思います。闇の中で困惑していた徳山は、師の差し出した紙燭の灯を見てまさに救われる思いだったことでしょう。
 ところが、意外にも龍潭和尚は紙燭の灯を即座に吹き消してしまいます。辺りは再び闇に戻ります。しかし、その瞬間、徳山は、悟りに至りました。そして、この夜のことで多年の疑問が解消したことを師に伝えると、その後は禅界の老和尚の教えに一切の疑問を抱くことなく、ひたすら禅の道を精進したといいます。
 この禅問答では、徳山の悟りの内容を問われています。読者ならどのような見解を持たれるでしょうか。
 以下、比較的よく知られている見解を一つ紹介したいと思います。
 禅には「門より入るものは是れ家珍(かちん)にあらず」という言葉あります。家珍というのは家宝のことです。家の外から入ってきたものは借り物であり、本物の宝物ではない…、本物の宝物というのは自分が苦労して手に入れるものである…という意味があります。
 禅の奥義は、人から教えられるものではなく、自らの力によって会得しなければならないとされます。ちょどこのやり取りが、禅の修行の大原則を象徴的に示しているのではないでしょうか。灯を吹き消された徳山は、そのことを合点したのだと思います。
 文字や言葉だけで分かったような気分になることの多い私などは、誠に耳の痛い逸話です。

 ただし、ご承知のとおり、禅問答の解答は一つではありません。これはあくまでも一つの見解です。この見解をもって老師(禅界にあって悟りを開いたとされる指導者)から、及第点がもらえるとは思いません。
 そこで、身の程知らずではありますが、もう一つ別な見解をお示ししたいと思います。「明」と「暗」についての見方です。(以下、③/③につづく)


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