FC2ブログ
2017
12.27

成仏の姿 ②/②

Category: 未分類
gatag-00013249.jpg
 ただ、このように考えると一つの疑問が生じます。A氏は成仏されました。ところが「仏」に成られたのに、「仏」が抜けてしまったことになるからです。「仏」が不在になった亡骸をなぜ「仏」と呼ぶのでしょう。そして、私たちはなぜ手を合わせるのでしょう。この矛盾をどう説明したらよいのでしょうか。
 次のように考えてみました。A氏の亡骸に手を合わせたときA氏の「仏」は、私たちの心の中に移動したのではないでしょうか。いや、私たちの中にも「仏」はあるわけですから、A氏の「仏」は、私たちの「仏」と響き合ったのではないでしょうか。となれば、A氏の「仏」は、私たちの中に常に存在することになります。私たちはいつでもA氏に会えることになります。これを「成仏」としてはどうでしょうか。
 横田南嶺老師(鎌倉・円覚寺管長)は、「成仏の姿」と題した法話の中で、仏教詩人、坂村真民の詩を挙げながら、次のように述べています。
  鳴いて 鳴いて
  泣き通し 鳴いて
  落ち葉と共に 
  消えていく
  こおろぎたちの見事な成仏  
      
           (「坂村真民全詩集第四巻」より)
                                                        bds_46.png
 成仏とは、秋の虫のように、鳴いて鳴いて鳴き尽くして、自分の命のあらん限り尽くしていったその姿を言います。(中略)
 紅く色づいた時ばかりがモミジの姿なのではありません。新緑の時も、夏の青葉の時も、落ち葉の時も、はたまた枯れてしまった時も、モミジの精一杯の姿です。それは命の姿、成仏の姿です。
 私たち人間も苦しんでいる姿、迷っている姿、歳をとっていく姿、病気の姿、そしてやがて死を迎えて、もう一歩言えば、死んだ後ですら命一杯、精一杯の姿であろうと思います。(以下略)

 老師は、モミジも人間も、生きている時が成仏の姿だと述べています。老師によれば、死だけが成仏ではないということです。仏教固有の思想ですので、にわかには馴染めないかも知れません。しかし、生きとし生ける物のすべてが、「仏(仏性)」という、いわば見えない「手」によって現成しているという考え方に立てば、老師の言葉は頷けます。
 私たちがA氏に手を合わせる意味は、命一杯、精一杯に生きられた死者に対して敬意を払うことであると同時に、私たちの中に「仏(仏性)」があるということを再確認する機会であるのかも知れません。
 「成仏の姿」として今を生きる…、それは「仏(仏性)」という見えない「手」によって生かされていることをしっかりと受け止め、そのことに感謝しながら、命一杯、精一杯に生きることなのだと思います。
 ただ、頭では理解できても、その実践となると私には、未だに心許ないものがあるのは困ったものです。(〆)

62-7.jpg
※クリックすると拡大して見られます。
スポンサーサイト

トラックバックURL
http://zitaichinyo.blog.fc2.com/tb.php/629-018ba4a6
トラックバック
コメント
管理者にだけ表示を許可する
 
back-to-top