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2017
12.19

道元禅師の疑問 ③/③

Category: 未分類
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 僧の質問は、風の持つ本来の性質は「常に在る」ことにあるのに、なぜわざわざ扇を使うのかということにありました。考えてみれば、意地の悪い質問です。風は、いつどこにいても顔に触れているのに、扇子など使う必要はないのではないかという、いわば“ツッコミ”です。
 これに対して、宝徹禅師は「本性は分かっているようだが、道理が分かっていない」と突き放します。そして、その後も悠然と扇を使い続けました。
 宝徹禅師の真意は、明らかだと思います。風の性質が常住であることを知っていたとしても、風が動かなければ認知できません。扇を使うのはそれを認知するためということでしょう。僧は、禅師からそのことを教えられ、礼拝したのだと思います。
 僧が投げかけた疑問は、道元が抱いた疑問に重なります。ここで宝徹禅師が伝えようとしたことは、もともと「仏」であっても、修行しなければそれが分からない、また、それを知っていたとしても、行動を通してそれを感得しなければ「仏」としての気質は高まらないということなのだと思います。私見ではありますが、道元は、この逸話を取り上げることで、自らが到達した境地を暗示したのではないでしょうか。

 ただし、これはあくまでも出家者としての在り方を述べたものです。道元の禅の特徴は、坐禅を基本とすることにあります。道元は、ただひたすら坐禅をするとともに、「行(ぎょう)・住(じゅう)・坐(ざ)・臥(が)(歩き、止まり、坐り、臥す)」の全てを修行とし、修行する姿こそが「仏」であると説きました。その意味では、禅の専門道場というのは、最も修行にふさわしい環境にあると言えます。そして、その場所での修行こそが「扇を使う」ことなのだと想像します。
 では、私たち在家者が「扇を使う」としたら、どのようなことが考えられるのでしょうか。
 残念ながら、浅学な我が身にあって、その回答をお示しする力はありません。そもそも凡人が自分自身を「仏」として感得するなどということは簡単なことではありません。
 私たちにできることはと言えば、そのことをある種の憧れとして心の奥に留め、ときどき思い起こしては自己の在り方を見つめ直すことくらいかも知れません。それも、束の間で、極めて不十分なものだと思います。
 しかし、たとえそうではあっても、その一時、私たちは「扇」を使って、微かな「仏の風」に触れているのではないかというのが今の私の受け止めです。
 最後に勝手な解釈ではありますが、私の場合、このようにブログを綴っているときにも、少しは「扇」が使えているのではないかと自分を慰めるのですが、それでは甘いでしょうか?(〆)
 
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