2017
12.15

道元禅師の疑問 ②/③

Category: 未分類
20161115b01.jpg  
 このことを人間に当てはめた場合はどうでしょうか。何とワンセットなのでしょう?
 仏教の教義に随えば、答えは「仏」ということになるのだと思います。乱暴かも知れませんが、道元の抱いた疑問は、マンガ本の小魚の疑問によく似ています。「海」の中あって「海とは何か」を質問することに意味がないように、「仏」の身である自分が「仏」になるための修行など意味がないということです。
 横道に逸れましたので、話を元に戻したいと思います。           
 宋に渡った道元でしたが、なかなか疑問に答えてくれる師は現れませんでした。しかし、26歳になったとき、諦めて日本に帰ろうとしたところで天童山 景徳寺の高僧 如浄(にょじょう)禅師に出会い、ついに悟りに至ります。それは、長年の疑問が氷解したときでもありました。
  道元は、如浄禅師と出会うことでどのように悟りを開いたのか、その悟りとは何だったのかなど、興味は尽きませんが、今回は、道元が最初に抱いた疑問について考えてみたいと思います。
 このことについて、『正法眼蔵』の「現成公案(げんじょうこうあん)」の中にその糸口になる逸話が残されています。
  麻浴山(まよくさん)の宝徹(ほうてつ)禅師が扇子を使っているところに、僧がやって来て問うた。
「風の本性は常住であり、行き渡らぬ場所はないのに、和尚は何を思って扇を使われるのか?」と。
 師は言った。
「お前は風の本性が常住であることは知っているようだが、いまだどこにも行き渡らぬ場所がないという道理が分かっておらぬようだ」と。
 僧が言った。
「では、どこにも行き渡らぬ場所がないという道理とは、いったいどういうことですか?」と。
 それに対して、師はただ扇を使うのみであった。僧は、礼拝した。

 礼拝したというのは、納得できたということです。いったいこの僧はどのように納得したのでしょう。(以下、③/③につづく)

62-4.jpg 
※クリックすると拡大して見られます。
スポンサーサイト

トラックバックURL
http://zitaichinyo.blog.fc2.com/tb.php/626-3f30bd94
トラックバック
コメント
管理者にだけ表示を許可する
 
back-to-top