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2023. 01. 11  
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 番組の中で4つの話が紹介されましたが、次は私が特に共感的に受け止めた話の一つです。
 悪を為(な)して人の知らんことを畏(おそ)るるは 
 悪中(あくちゅう)にもなお善路(ぜんろ)あり
 善を為して人の知らんことを急(きゅう)するは 
 善処(ぜんしょ)即(すな)ちこれ悪根(あくこん)なり         
[前書57]

 前段は、悪いことをして、他人にそれを知られたりすることは不都合なことだが、それを隠そうとすることの中に善い方向性が芽生えている-。悪いことをしたとしても、そのことを本人が自覚し、反省する気持ちさえあれば、その心の中に善に向けた芽生えがある-。概ね、こんな意味になるようです。
 一方、後段は、善いことをして、それを他人に早く知ってもらいたいと思うようなら、そこに悪への種が隠れている-。善いことをしても、これ見よがしにするような態度には、悪の根が芽ある-。こんな意味のようです。

 前段の「悪中にもなお善路あり」という言葉には救われるところがあります。山田無文老師(昭和に活躍した臨済宗の禅僧)の言葉に次のようなものがあります。「維摩経(ゆいまきょう)」の講義の中にあったものです。
  たとえ罪を犯しても、その人の本性までは汚れない。その汚れないきれいな心があればこそ「私は罪を犯した」と悩む。自分の悪が分かるということは、自分の中に仏がいるからだ。自分を厳しく裁いていく心は、神の心だ。仏の心だ。罪を犯したのは一時の出来心であり、それを裁くのが本当の自分だ。その本当の自分を自覚することが悟りである。
  無文老師の言葉を借りるなら『菜根譚』にある「悪を為して人の知らんことを畏るる」自分こそは仏であり、その心は神の心仏の心であるということです。
 一方、後段の「善処即ちこれ悪根なり」という言葉には、身につまされるところがあります。一般に私たちは善いことをすると、それを早く人に知ってもらいという気持ちが起こるものです。そして、よい評価が得られれば満足します。
 ところがいつも自分の思い通りになるわけではありません。ときには評価されなかったり、無視されることもあります。そして、そのことへの不満や怒りが元になって、逆恨みに発展するようなこともあります。それを「善処即これ悪根なり」と言っているのだと思います。「善を為して人の知らんことを急する」ような行為は、自らの器量の小ささを示すようなものであり、仏の心や神の心、さらには「悟り」の境地とは対極にあるということなのでしょう。私などには、誠に耳の痛い指摘です。
   [全書57]については、多川氏から次のような補足説明もありました。それは、「善悪の線引きははっきりとしたものとしてあるのでなく、いわば点線のようなものである」というものでした。つまり、善悪の境界はグラデーションをなしているということです。 
 悪を犯しても悔い改めれば救われ、善を実践しても謙虚に生きていく…。仏教で説かれる「懺悔(ざんげ)」と「陰徳(いんとく)」のことを述べたものだと思われます。つまりは善悪に境界はないということです。善も悪も、私たちの捉え方や受け止め方によって流動し、固定的な実体はないということだと思います。私は、仏教思想のこの柔軟性に魅力を感じるのです。(以下、③/④につづく)
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