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2017
09.14

本当の“幸せ”とは ①/③

Category: 未分類

p6G1yzN8vU3j3Q2XFrYLO7CwHDbuXlLS_20170916125723b6b.jpg   [玄侑宗久氏]
 以前、テレビを視聴(NHK Eテレ100分で名著「荘子」)を視聴していて、“幸せ”という言葉の語源について知る機会がありました。僧侶であり作家でもある玄侑宗久氏による荘子の思想についての解説の中でのことでした。
 それによると“幸せ”という言葉の起源は奈良時代にあり、当時は「為合わせ」と表記されていたとのことでした。そして、この場合の主語は「天」であると補足されました。つまり、「天」の「為すこと」に人間が「合わせる」ということが“幸せ”という言葉のもとになったということです。
 「天」が「為される」ことに人間は逆らうことができません。人間は「天」の「為さる」ことには「合わせ」ることしかないわけですから、それが最も自然で無理のない在り方であり、そこに“幸せ”があるということなのでしょう。
 ところが時代が下り、室町時代になると「為合わせ」は「仕合わせ」と表記されるようになったのだそうです。そして、それとともに主語は「天」から「人」に変化したとのことでした。
 主語が変われば、当然、その意味合いも変わります。この場合には、「人」が「人のすること」に「合わせる」ことになりますから、“幸せ”は、人間相互が相手の行いに合わせて生きていくことの中にあるということになります。
 このように見てくると、「為合わせ」も「仕合わせ」も、その語源は何とも主体性のない態度の中にあるように思えます。現代を生きる私たちにとって“幸せ”とは、自らの手でつかみ取るものというのが通常の理解ではないでしょうか。
 ところが玄侑氏からは、意外な話が聞かれました。氏によれば、これこそが荘子の考える「究極の主体性」であるというのです。いったいどのようなことなのでしょうか。
 このとき、荘子独自の思想として紹介されたのが、次の詩でした。

感じて而る後に応じ(かんじてしかるのちおうじ) 
迫られて而る後に動き(せまられてしかるのちにうごき)
已むを得ずして而る後に立ち(やむをえずしてしかるのちにたち)
知と故を去りて而る後に天の理に随う(ちとこをさりてしかるのちてんのりにしたがう)
(意訳)
 自分の考えで動いたり、変化したりするのではなく、周りに迫られて止むを得ずして行動し、小賢しい知恵や意志を捨てて、天道や自然の理に随っていくことが一番よい生き方である。

 見方によっては「究極の受け身」ですが、荘子はこれを「究極の主体性」とし、最高の行動原理であるとしたのです。(以下、②/③に続く)
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※クリックすると拡大して見られます。

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