2016
09.22

オリンピック精神とは?③/④

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a0009666_18273753.jpg [ゴールするデ・リマ選手]
山田無文老師(昭和に活躍した臨済宗の禅僧)の言葉に次のようなものがあります。「維摩経」についての講義の中にあった言葉です。


 「仏」とは自覚者のことで、これはお釈迦さま一人を指したものではない。…仏教で言う自覚は、いわゆる自我の自覚ではない。自我の奧、個性の奧にある「普遍的な人間性」を自覚することである。万人に共通する人間性、「尊厳なる人格」とも名づけることができる。それは人類を愛さずにはおれない、世界を愛さずにはおれない純粋なヒューマニズムである。


 急に抹香臭い話になって恐縮ですが、先の「第二の自分」というのは、無文老師の言う「自我の奧、個性の奧にある普遍的な人間性」、つまりは仏教の説く、「仏(仏性)」に重なるものではないかというのが私の見解です。
 クーベルタン男爵の提唱により始まった近代オリンピックですが、その基本精神は「オリンピックで重要なことは、勝利することより参加することである」という考え方にその原点があると承知しています。
 このオリンピック精神こそは、無文老師の言う「普遍的な人間性」「万人に共通する人間性」を自覚するところから生まれる「自他を超越した崇高な心」そのものと言ってもよいのではないでしょうか。それは、自我(「第一の自分」)の影響を除いたところにあるもう一人の自分(「第二の自分」)によって自覚されるより高められた精神と言えるものです。
 デ・リマ選手の言葉は、オリンピック精神の原点を見つめ直す機会を与えたと同時に、国籍やメダルの色や数などとは別に、普遍的で万人に共通する、より尊く、清浄な尺度があることを私たちに気づかせてくれたのではないでしょうか。

 そこでもう一つ、今回のオリンピックには、忘れられない逸話がありました。新聞やテレビなどで大きくに取り上げられましたので、ご存じの読者も多いかと思いますが、改めて振り返ってみたいと思います。陸上女子5000メートル予選で接触して倒れた二人の選手が互いに助け合い、励まし合って完走し、観る人の感動を呼んだあのレースです。中日新聞の記事をもとに紹介したいと思います。


 ニュージーランドのハンブリン選手とアメリカのダゴスティノ選手は、3000メートルを走った辺りで交錯し、転倒しました。先に立ち上がったダゴスティノ選手は、起き上がれずにいたハンブリン選手に対して「立って。最後まで走らなきゃ」と肩に手を添えて助け起こしました。
 しかし、その直後、足首を傷めたダゴスティノ選手が、その場にへたり込んでしまうと、今度はハンブリン選手が手を差し伸べて激励する側となりました。曰く「先に助けてもらったから、助けようと思った」と。
 ところがダゴスティノ選手の足首の状態はひどく、ハンブリン選手はやむを得ず、先に15位でゴールしました。そして、ダゴスティノ選手も足の痛みを堪え、足を引きずりながらゴールしました。待ち受けていたハンブリン選手は、ゴールしたダゴスティノ選手と涙ながらに抱擁しました。
 レース終了後、インタビューに答えたハンブリン選手は「ダゴスティノ選手から肩に手を添えられ『五輪だからゴールしよう』と言われた。これこそが五輪精神そのものだと思った」と語りました。言うまでもなく、大会前、二人に面識はありませんでした。

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 その後、二人はレースを妨害されたとして救済措置が取られ、決勝進出が認められました。一定のルールに従って下された裁定であったとは思いますが、ことの経緯を知っている私などは、溜飲の下がる思いでその報に接しました。そして、ここにもオリンピック精神が生きていると実感しました。
 その結果、ハンブリン選手が17位、ダゴスティノ選手は棄権となりました。しかし、結果はどうあれ、欧米のメディアが「真の五輪精神」「スポーツマンシップを示した」と賞賛して報道したように、二人の行為は、まさにオリンピック精神を体現したものであり、私たちの心を打つものです。(以下、④/④につづく)

 
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※クリックすると拡大して見られます。



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