2017
07.28

「光のない光」で見る!④/④

Category: 未分類
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 私が喩えた室内の塵というのは、人間の生理機能を成り立たせている様々な要素のことです。仏教では、古来よりこれを四大(地・水・火・風)と呼びましたが、現代にあっては、分子、原子、素粒子、そしてそれらの運動と位置を支配する未知なる力を含むものとでも言ったらよいのでしょうか。いわば「生の種」とも言えるものです。もちろん、それは同時に「死の種」でもあります。
 「生・死」の種は、ライトに照らされようと照らされまいと、変わることなくそこに存在しています。そこで、この「生・死」の種を、光がなくても見えるように、「二つ目の知性」の光で照射させてはどうかということです。
 具体的には、従来の「知性」を超える、さらに高い「知性」、言い換えるなら、自我(エゴ)に影響されない清浄無垢な「知性」によって、この世界を捉え直すということになるのでしょうか。そして、そのことを通して「生・死」の種は本来一つであることに気づき、この世界を「一元の世界」、つまり「生死一如」の世界として認識するということになるのだと思うのです。
 ただ、そこに至るには高いハードルがあることは言うまでもありません。それは、従来の「知性」の否定であり、同時に従来の自己(自我)の否定でもあります。また「二つ目の知性」の放つ光は、極めて特殊な光です。言うなれば「光のない光」です。その光で塵を見ることなど、常人には不可能です。
 しかし、仏教の教祖、釈迦をはじめ、達磨、慧能、馬祖、百丈、臨済、白隠など、古今東西のとりわけ禅僧の中には、その領域(境地)まで到達した思われる傑人が数多くあります。そのことに想いを致すだけで、単純な私などは、勇気づけられるのです。
 牛歩のようではあっても、「光のない光」で塵を見る努力を続けていれば いつか「これだ!」と了解できるときが来るかも知れません。あまりにも楽観的過ぎるのかも知れませんが、この先も、これら先人の言葉や行動に触れる機会を持ち続けたいと思っているところです。
 北原氏の「虹の話」と私の「光と塵」の喩えは、共に「生命の永遠性」をテーマにしたものです。互いに似て非なるところもありますが、この二つの話の中に「生・死」にまつわる問題を解く鍵を感じられた読者はあるでしょうか?ご意見をお待ちしています。(〆)
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※クリックすると拡大して見られます。

次回は「心とは何か?」を掲載(5回配信)します。ぜひ、ご訪問ください。

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