2017
07.24

「光のない光」で見る!③/④

Category: 未分類

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 このことをもう少し詳しく説明したいと思います。幼児の場合を考えてみます。生まれたばかりの幼児(嬰児)に「生」や「死」という意識や概念はあるでしょうか。とてもあるとは思えません。
 俗に「物心がつく」という諺がありますが、幼児にあって「生」と「死」の認識ができるようになるのは、通常、人の心の動きや世の中の様子などが理解できるようになってからだと聞きます。様々な体験の蓄積やそれに基づく精神活動が活発になるにしたがって、「生」や「死」が問題として意識されたり、認識されたりしてくるということなのでしょう。
 ところで、こんなふうに見てくると、私たちは「自縄自縛(じじょうじばく)」に陥っているようにも思えてきます。光に照らされているときも、照らされていないときも、室内に浮遊する塵は何一つ変化していません。したがって、そこには「生」もなければ「死」もありません。これも『般若心経』で詠まれる、いわゆる「不生不滅」の状態です。
 ところが、「生」も「死」も精神活動を通して作り上げられる概念であり、それ自体に実体はありません。しかも、概念化のプロセスでは「自我(エゴ)」の働きが深く関与するため、私たち一人一人の死生観は、より複雑なものになります。
 結局、私たちは、自分の頭の中で作り上げた「生」や「死」によって、自らを縛り、悩み、苦しんでいるということになります。これが「自縄自縛」の状態です。自分の作った縄で自らを縛り、自由がきかない状態に陥っているのに、それに気づいていないということです。
 ただ、だからといって生まれたばかりの幼児(嬰児)や動物や植物の真似をしようと言うのではありません。私たちには高い「知性」があります。それを放棄したり、無視してしまっては人間生活を営むことはできません。そこで、提案です。
(以下、④/④につづく)

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