2017
06.14

ミクロの世界と一元論 ③/④

Category: 未分類
quantum-image.jpg 
 ここまで読み進めた読者の中には、今回のブログの内容がいつもと異なることをいぶかしく感じられる方もあるかも知れません。あまりにも科学に傾斜し過ぎているのではないかと…。
 そこで、この辺りで軌道修正したいと思います。またぞろ抹香臭い話の登場かと思われるかも知れませんが、最後までお付き合いいただければ幸いです。
 先ずは、一つ目の「ミクロ世界と観察者の間に立ちはだかる『h』の壁」という話です。志村氏が述べる「人間の心が対象に影響を与える」という件に接し、私はすぐさま「物心一如」という仏教語を思い出していました。物質と精神は一体であるということを述べたものです。類義語に「心身一如」という言葉もあります。
 以前、本ブログ「しゃもじになる」で、臨済宗の宗祖である臨済義玄(りんざいぎげん)禅師の語録の中に「心地の法(しんちのほう)」という言葉があると紹介しました。曰く
「道流(どうる)、山僧(さんそう)が説法、什麼(なん)の法を説く。心地(しんち)の法を説く」と。
 私の独断的な解釈ではありますが、「心地の法」というのは、心があたかも大地の如く、認識の世界の中に様々なものを生み出してくるということを述べたもだと思います。しかしながら、心から世界が出てくる…、心が世界を造っている…、ということではありません。臨済の説く認識論は、決して「唯心論」ではありません。もちろん「唯物論」でもありません。心(あるいは意識)が、何ものかに出逢うことによって、それが認識され、実在し、現実的な意味が生まれてくるという、ごく当たり前の事実を述べたものだと思います。その意味では、臨済の「心地の法」と「人間の心が対象に影響を与える」という現代物理学の研究成果とはそっくり同じものとは言えません。
 しかし、志村氏の「ミクロの世界が拓けたことで科学の世界にも人間の心を含まざるを得なくなった」という言葉は新鮮です。これは「物」と「心」の間に壁を設けることなく、それを一つのものとして見ていくという在り方に言及したものです。飛躍するかも知れませんが、この考え方の先にあるものは、どんな「物」にも「心」が宿っているという思想ではないかと思うのです。仏教の根本理念である「慈悲心」にも通じていくものだと思います。(以下、④/④につづく)
57-6.jpg 
※クリックすると拡大して見られます。
スポンサーサイト

トラックバックURL
http://zitaichinyo.blog.fc2.com/tb.php/585-caf720b4
トラックバック
コメント
管理者にだけ表示を許可する
 
back-to-top