2017
05.17

「恥ずかしい話」の考察 ② /④

Category: 未分類

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 まず、最初に虫に出会ったときの私の反応です。私は、とっさに邪魔なものだと感じました。運転するのに支障があるほどのことはなかったのですが、単に目障りだったのだと思います。
 しかし、今、冷静になって考えてみれば、虫を排除したいというのは私の身勝手な思いです。虫にしてみれば、私の車に止まることには何らかの意図や意味があったはずです。したがって、私から受けた仕打ちは極めて理不尽なものだったと思います。身の自由を奪われ、さぞや不愉快でもあったことでしょう。
 そして、車は赤信号に差しかかりました。このときの私には、自分の身勝手さへの気づきはまだありませんでした。頭の中は、小さな虫を思うがままにできないことへの悔しさが渦巻いていました。若気の至りとはいえ、まことにお恥ずかしい有り様です。
 ところが、まさに青天の霹靂でした。車の停止と同時に、虫は何事もなかったかのように、ひらひらと中天に飛び立っていったのです。
 「してやられた!」という思いはありました。しかし、その一方で、虫の姿に何か清々しいものも感じました。身の自由を得たものに対して無意識のうちに同化していたのかも知れません。そのときの不思議な感覚は今でも忘れられません。その後、しばらくの間、運転席から虫の姿を目で追っていたと記憶しています。

 ところで、仏教徒が認めなければならない三つの立場の一つに「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)があります(他の二つが「諸行無常」「諸法無我」)。「涅槃」というのは、サンスクリット語のニルバーナ漢訳したものです。燃えさかる炎を吹き消すという意味ですが、炎というのは言うまでもなく“煩悩の炎”のことです。したがって「涅槃寂静」というのは、あらゆる煩悩の炎を吹き消し、心が完全に鎮まった状態のことを述べたものです。いわゆる「悟り」の境地です。
 当初、私が虫に対してとった行動はまさに煩悩の為せる業だったのだと思います。虫を排除したいというのは私の我欲・我執に他なりません。虫の都合や立場などまっく念頭にありません。運転中に私が試みた愚行は、ことごとく虫の自由を奪うものでした。
 また、ここで忘れてはならないことは、それが私自身の心を縛るものでもあったということです。「~したい」「~しなければならない」「~するしかない」などの思いは、明らかに私の心を縛り、悩ませ、苦しめるものでもありました。それこそが“煩悩の炎”によってもたらされる負の心なのだろうと思います。(以下、③/④につづく)

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