2017
05.09

「投機」について ③/③

Category: 未分類
無題  

 概念の織りなす世界を禅では妄想(もうぞう)といいます。実体や根拠のない主観的な想像や信念、思い込みのことです。「莫妄想(まくもうぞう)」(妄想すること莫(なか)れ)」という禅語もありますが、禅的に見るなら“金”こそは、概念・妄想の権化ということになるのでしょう。
 玄侑氏は、禅でいう本来の「投機」というのは、からだ一つに戻る勇気であるとも言っています。“金”はなくとも、また地位や名誉や学歴などなくとも、からだを通して「いのち」は営々と営まれ続けています。この世の中に「いのち」と等価なものなど存在しません。私たちがその「いのち」に目覚め、一切の概念・妄想を捨てることができるなら、からだは自然と一体化し、最高の力を発揮する、それこそが真の「投機」であり、「悟り」であるということです。
 何やら現実味のない話になってしまったことをお詫びしなければなりません。ただ、「投機的資本主義」という言葉に象徴されるような、“金”に根拠を置いた生き方を見直す時期に来ていることだけは確かだと思うのです。確かに人が生きていく上でどうしても必要な概念・妄想はあるでしょう。“金”もその一つには違いありません。そうでなければ信用経済は成り立ちません。
 しかし、今、概念化が必要以上に進みすぎているのではないでしょうか。また、人間には概念・妄想を実感として織り込み、その中で右往左往する悪い癖があることが忘れられているのではないでしょうか。概念・妄想はあくまでも“幻想”であり、現実ではありません。“幻想”を“幻想”として理解・認識することが“リアル”に生きるとことの第一歩なのだと思います。
 私たちが禅で言う「投機」、つまり「悟り」に到達することなどは至難の業ではあります。しかし、通常の意味での「投機」を含め“金”を取り扱う際には、概念・妄想の持つ危うさをよくよく自覚する必要があるのだと思うのですが、読者はどのように思われるでしょうか。(〆)
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