2017
04.27

人を木に変える ④/④

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20130420041930764.jpg [趙州塔]

 実は、趙州と僧との逸話には後段があります。趙州が「庭前の柏樹子」と答えた後のやり取りです。この答えを聞いた僧は、趙州が庭先にある樹木などと物を持ち出して答えたことに納得せず、再び同じ質問〈如何なるか是、祖始西来意〉をします(因みに僧は最初の一語を聞いても悟れなかったのです)。すると趙州は、物で答えていないことを明言した上で、再度、「庭前柏樹子」と答えます。これはどういうことなのでしょう。
 趙州が住していた趙州観音院には柏林寺(はくりんじ)という別名があったと言います。当時、おそらくは境内には柏樹子がたくさんあったのでしょう。僧から問われたとき、趙州の目の前には柏樹子が林立していたと思われます。
 しかし、このときの状況を指して、趙州を主体(我)、柏樹子と客体(物)というように分離して見たなら、この問答の奥義には迫れないのだと思います。
 禅の世界観によれば、主体も客体もありません。全てを一元で見ていきます。つまり、柏樹子も達磨も趙州も一つです。したがって、関山も隠元も一つです。推測ですが、『無門関』の第37則は、修行者たちにその世界を味わわせるためのものなのではないかと思います。
 このような見方は「山川草木悉有仏性(さんせんそうもくしつうぶっしょう」という仏教の根本思想に連なるものです。生きとし生けるものに仏が宿っており、その一点において全ては一つであり対等であるという世界観です。その意味では、“人”や“木”を“仏”に置き換えたとしても、何の齟齬も生じないことになります。質問をした僧も仏なら、答えた趙州も仏ということです。もちろん達磨も同様です。これが関山の受け止めであり、隠元の受け止めだったのではないでしょうか。

 以上、長々と私見を述べてきましたが、これはあくまでも理屈です。禅の世界に理屈は不要です。また、それが通じるものでもありません。禅で尊ばれるのはあくまでも「不立文字」であり、具体や体験、実践です。いくら駄弁を弄しても無駄であるばかりか、本質からだんだん離れてしまうのが落ちなのです。
 しかしそれが分かってはいても、身の程知らずな理屈をこね回す悪癖を止められないところに今の私の弱さ、至らなさがあるのだと思います。本当に難儀なことです。(〆)
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※クリックすると拡大して見られます。

                                                       

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