2017
04.19

人を木に変える ②/④

Category: 未分類

DSC03117.jpg  [柏樹子(柏槇)]
 この禅問答についての山田無文老師(昭和に活躍した臨済宗の高僧)の言葉があります。


 柏樹子にはもちろん意識はない。大きくなろうとか、花を開いて実を結ぼうとか、涼しい木陰を作って人々を休ませてやろうなどという意志は毛頭ない。無心にして花を咲かせ、無心にして実を結ばせ、無心にして涼しい木陰を作って人々を憩わせているにすぎない。


  誰かが何らかの意図を持ってその場所に苗木を植えたのかも知れませんが、柏樹子自身に何の意図もないはずです。ただ無心にそこに立っているだけです。しかし、その花や実、そしてそれが作る木陰などは、動物たちや人間に施しを与えています。意図はなくても、生きとし生けるものに救いの手を差し延べています。仏教的に言うなら「衆生済度しゅじょうさいど)」しています。その意味では、立派に役割を果たしていることになります。
 では達磨の場合はどうでしょうか。達磨が中国に渡ってきたことに果たして意図はあったのでしょうか?
 古代中国の南北朝時代に達磨がインドから中国に渡って来たとき、梁国の武帝とのやり取りが古事として残されています。


   武帝:「私は長く寺を作り経を写させ僧を育ててきたが、どんな功徳があるか?」
 達磨:「無功徳(むくどく)」-功徳などありません
 武帝:「それならば仏教の大切な根本(真理)とは何か?」
 達磨:「廓然無聖(かくねんむしょう)」-全てはカラリとして、秋晴れの空のように雲一つありません。根本(真理)などという特別なものはありません。
 武帝:「私の前にいる者は誰か?」
 達磨:「不識(ふしき)」-わかりません
 武帝の問いに対する、何とも素っ気ない


 達磨の答えが印象的ですが、中でも「廓然無聖」という言葉に目が止まります。「全てはカラリとして、秋晴れの空のように雲一つありません…」とありますが、もう少し補足するなら、この世の本当の姿というのは、あらゆる分別を離れたところにあるということです。つまりは「仏教に根本とか真理などと呼べるものものはない」ということです。となれば、達磨がはるばるインドから渡って来たこと自体に意味はないということになります。(以下、③/④につづく)
56-2.jpg 
※クリックすると拡大して見られます。

スポンサーサイト

トラックバックURL
http://zitaichinyo.blog.fc2.com/tb.php/572-40ca6b38
トラックバック
コメント
管理者にだけ表示を許可する
 
back-to-top