2016
12.09

“いのち”の引っこし④/④

Category: 未分類

                             
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フレディがおりたところは雪の上です。やわらかくて意外とあたたかでした。
引っこし先はふわふわして居心地のよいところだったのです。
 フレディは目を閉じ、ねむりに入りました。
 フレディは知らなかったのですが---。冬が終わると春が来て、雪はとけ水になり、枯れ葉のフレディはその水にまじり、土に溶けこんで、水を育てる力になるのです。
 “いのち”は土や根や木の中の目には見えないところで新しい葉っぱを生み出そうと準備をしています。
 大自然の設計図は、寸分の狂いもなく”いのち”を変化させつづけているのです。


 アメリカで作られた絵本でありながら、「色即是空」、「成住壊空」といった仏教の思想を補完するような筋立てには驚かされるばかりです。
 言うまでもなく、これは寓話です。しかし、私たちの心の奧深くに迫るのはなぜなのでしょうか。
 それは 〈葉っぱのフレディ〉の“いのち”に私たち自身の“いのち”を重ね合わせているからではないでしょうか。禅的な表現をするなら、私たちがこの“いのち”の物語に浸っているとき、私たちは〈葉っぱのフレディ〉になっていのだと思います。
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 ところで、先のエッセイ「犀の作る池」の中で、山川老師は、これは犀にだけ見られる特例ではなく、他の生き物も当てはまると述べています。他の生き物の中に人間が含まれていることは言うまでもありません。
 こんな指摘を受けると、私などは、内心忸怩たるものがあります。果たして、そのときに臨み、老犀のように泰然とした行動が取れるのだろうか、またその覚悟を育てるべく日々の生活を送っているのだろうかなどと自問すると、誠に心許ない限りです。
 そこで、最後にもう一つ「無情説法」に耳を傾けたいと思います。老師がこのエッセイの末尾に記されていた言葉です。


 この地球上において、独立した生命などはないということだ。まさに互いに生かし生かされている。その関わりの中に我々人間もいるということだ。例外など実は一つもない。それゆえに自分のためなどという言葉の、なんと浅薄なことかと改めて思うのだ。


  人間は、その誕生以来、自然の一部として存在しています。唯一の存立条件は、自然の循環の中で自然に寄り添い、自然とともに生きていくことにあります。
 ところが私などは、ともするとその事実から目を反らし、自分を中心にした生活スタイルからなかなか抜け出せません。この悪癖を改めるのは容易なことではありませんが、それでも日々、無情のものたちが示す生き方、在り方に想いを寄せ、少しでも「私心」を薄める努力は続けたいと思っているのです。(〆)

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※クリックすると拡大して見られます。

                                                       


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