2016
05.19

「点」と「点」を結ばない ③/③

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 玄侑氏が述べる「人間の頭の中にある、抜き難く時間を連続せしめようとする力」というのが「記憶する」ということでしょう。仏教では、それを火の着いた縄を回すことに喩えるのだと思います。
 「記憶」というのは言葉や文字などによる知識の蓄積です。それに基づいて私たちの思考は始まります。その先に分別や比較、分析、判断、そして受容や拒否などといった思考活動があるのだと思います。例えば「あのとき、あの人は○○をした」「また、別のあのときは△△と言った」など、「点」と「点」の情報を結び合わせ、「だからあの人は□□だ」などと一方的にまとめてしまいます。
 「記憶」やそれに基づく様々な思考活動は社会生活を営む上で必要なことではあります。しかし、注意しなければならないのは、それらが自我(エゴ)の影響下で行われるという事実です。本来独立している「点」と「点」を無理やり都合よく結びつけてしまっているのです。したがって、そこでは必ずしも客観性は保証されません。そこに私たちの苦悩の一因があることを忘れてはならないのだと思うのです。
 妻には申し訳なく思うのですが、彼女の愚痴もその例ではないでしょうか。「昔の母はこんなではなかったのに…」という想いは、独立した「点」と「点」の結合によってもたらされる落とし穴のようなものだと思うのです。
 私たちは常に非連続の中にあります。火の着いた縄をいくら振り回しても「点」と「点」は独立したままです。それが「実相」です。そうである以上、ときに私たちは非連続の時間は非連続のまま受け入れていくという発想の転換も必要なのではないでしょうか。
 孫のことに話を戻すなら、孫に「点」と「点」をつなぐ力はありません。火の着いた縄を回す力がないのです。孫にあるのは「点」だけ、つまりは不連続の「今」だけです。過去もなければ未来もありません。比較することがありませんから、苦悩もありません。いつ見ても屈託なく弾んでいられるのはそのためなのでしょう。思えば、誠にうらやましいことです。
 妻もこれに倣うとよいのかも知れません。義母の変化を止めることはできません。今日よりも明日、明日よりも明後日、さらには1週間後、1ヶ月後、1年後とその様子を変化させていくことでしょう。それに伴い、妻は対応の変化を迫られるのだと思います。
 その意味では、妻も孫に倣い、そのときそのときで母のイメージを消去していけば、苦悩も軽減するのかも知れません。ただし、私の助言を妻が素直に受け入れてくれるかどうかは分かりませんが…。
 禅には「前後裁断(ぜんごさいだん)という言葉があります。現在の状況を過去や未来と対比させることを否定する在り方を述べたものですが、同時に「今」という時間を精一杯に味わいながら生きることでもあります。仏教の時間論から導かれる含蓄のある在り方だと思います。孫のように無邪気にはできませんが、できる範囲で取り組んでいきたいと思うのです。(〆)                                       

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次回は「“角ならず”で勝つ」を掲載(4回配信)します。ぜひ、ご訪問ください。

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