2016
05.15

「点」と「点」を結ばない ②/③

Category: 未分類
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   私たち大人(人間)は、抜き難く「点」と「点」を結びつける傾向があります。自分の持つ感覚や感情、尺度や価値観などを織り交ぜながら、「点」と「点」とを結びつけ、自分なりに意味づけをすることで心の安定を図っています。それは、私たち大人の特性でもあります。しかし、そこに意外な盲点が隠されているのかも知れません。もう一つ卑近な例を挙げてみたいと思います。
 96歳になる義母と同居しています。義母には認知症の症状があります。そのために、その世話(実質的には介護)となると一筋縄ではいきません。世話をする妻にすれば実母であり、全てのことを受け入れざるを得ない状況にはありますが、現実は誠に厳しいものがあります。私ができることと言えば、妻の愚痴を聞くことくらいしかありません。
 ただ、そんな折にふと思うことがあります。それは、妻は「点」と「点」を結んでいるのではないかということです。つまり、子どもの頃、厳しくも愛情を込め懸命に育ててくれた母のイメージと今の母の姿とを結びつけ、重ね合わせることによって生じるギャップに苦悩しているのではないかということです。「母は、昔自分に教えてくれたことができない…」「昔の母はこんなではなかったのに…」など、こんな想いが妻を苦しめているのではないかと思うのです。
 玄侑宗久氏(臨済宗の僧侶、作家)の話から、古い部派仏教の中に面白い時間論があることを知りました。
 縄の先に火が着けます。火は「点」の状態で徐々に燃えていきます。それをゆっくり回したとします。当初は火のついた縄の先は「点」に見えるます。ところが回す速さをだんだん上げるにつれて「点」は見えなくなり、やがては「線」になり、「輪」になって見えてくるはずです。これを「旋火輪(せんかりん)とい呼ぶのだそうです。
 回っている間にも、縄の先の火は「点」のはずです。いわば非連続の状態です。しかし、これを速く回すことによってやがては「輪」になって見えます。この「輪」に実体はありません。ただそのように見えるだけです。
 ちなみに、仏教によれば、火のついた縄を動かす力が、時間を生み出しているとされるようです。
 玄侑氏は次のように述べてます。
 「我々の人間の頭の中には、抜き難く時間を連続せしめようとする力があります。しかし、これが連続しているというのは、非常によろしくないという考え方もあるのです。非連続の時間は、非連続のままでいいのではないかというのが、坐禅です。坐禅している時間というのは、(中略)、記憶に残りにくいのです。というのは「記憶する」という作業は、この縄を回すということによってしかできないからです。」
以下、②/③につづく)

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