2017
01.29

一日不作一日不食 ③/③

Category: 未分類

 にわとり                    
 無着氏は、後に「子どもたちには、生きとし生けるものには全てに仏性があることを教えたかった」と述べています。「仏性」とは「一切の衆生が本来もっている仏としての本性」のことを言います。「山川草木悉有仏性(さんせんそうもくしつうぶっしょう)という理念に立つなら、生きとし生けるもの全てに具わる「仏の本性」「いのち」と読み替えたとしても何の齟齬もないと思います。
 子どもたちは、「もったいない…」「最後まできれいにいただかなくてはいけない…」、と感想を綴っています。これは、ニワトリの「いのち」と自分の「いのち」を重ね合わせることによって得られるたいへん尊い気づきだと思います。
 ニワトリの身体から流れる温かい血に触れたときの子どもたちの衝撃は、察して余りあるものがあります。その後、解体された肉は、肉屋に並ぶそれと同じではありました。しかし、地面に焼け落ちた肉を惜しむ心と、それを拾い、洗っていただくという行為は、紛れもなくそこに深い学びがあったことを証明しています。子どもたちは、同じ「いのち」を持つものとして、「自他一如」に目覚めたのだと思います。そして、飛躍するかも知れませんが、そこに互いの「仏性」を感得しのだと思います。
 百丈禅師は、作務、つまり労働することが仏に近づくことにつながると教えました。ニワトリを飼育することも、広義には労働ではありますが、そこまでの拡大解釈をしなくともよいのかも知れません。子どもたちは、ニワトリを殺して、食べることにより、かれらにも自分たちと同じように「いのち」、あるいは「仏性」があるということに気づいたのだと思います。
 したがって、働くことが「仏性」に目覚めるための修行なら、「食べる」ことも「仏性」に目覚めるための行為になり得るのかも知れません。勝手な想像ではありますが、無着氏は、そのことを「食べる」ことに伴う「神聖さ」としているのではないかと思うのです。
 私たち大人も、「食べる」ということの意味について、今一度、思い返してみる必要があるのかも知れません。(〆)

54-1.jpg 
※クリックすると拡大して見られます。

スポンサーサイト

トラックバックURL
http://zitaichinyo.blog.fc2.com/tb.php/548-10fc49cc
トラックバック
コメント
管理者にだけ表示を許可する
 
back-to-top