2017
01.25

一日不作一日不食 ②/③

Category: 未分類
無着成恭 [無着成恭氏]
 「一日不作一日不食」…。これがその昔、旧ソビエト連邦で示された「働かざるものは食うべからず」という社会主義の実践的戒律でないことは言うまでもありません。働くことは食べるために行うものではありません。禅師にとっては、あくまでも修行の一つであり、仏に近づくための道を実践するものでありました。したがって、一日でも仏道の実践を疎かにすることは、仏から遠のくことであり、食べる価値もないとして自戒の意を示したのだと思います。
 恥ずかしいことではありますが、この禅語を目にすると、私のような横着な人間は、誠に忸怩たるものがあります。
 ところで、細川氏はその著書の中で、その昔「やまびこ学校」で有名になった教育者であり、曹洞宗の僧侶でもある無着成恭(むちゃくせいきょう)氏の実践に触れています。以下、無着氏の手記を原文のまま紹介します。
 集まってきた子どもたちの前で、まず竹を倒す。「竹は君たちのために死んでくれたのだ」という話をして、お箸をつくらせる。そのお箸で三泊四日の食事をいただくようにする。食事のための作業は全てこどもにやらせる。とくにキュウリやナスは、畑でもぎとるところからやらせる。食べられる野草もつませる。そして三日目の午後、寺で飼育しているニワトリをつかまえ、解体して食べる―というところまでやる。
 「生きる」ということは、すべて何かのいのちを「いただく」ということを直接教えなくなった今、子どもたちは「他人の殺したものなら平気で食べる」「平気で食べ残す」「食べることにともなう、ある神聖さや感謝の気持ちを失う」という精神状態にある。そういう子どもたちの心に一つの事件を与えたいと、私は考えた。
 次は、参加した子どもたちの反応です。
 ニワトリを殺すとき、ニワトリの血が手に流れた。血はあたたかった。あ、ひとつのいのちがオレのために消えたと思った。泣いている女の子もいた。そのニワトリを解体したら、肉屋に並んでいるお肉と同じになった。そのときはもう誰も泣いていなかった。そのお肉を串にさし、焼き鳥にしたら、さっき泣いていた女の子も、笑って食べていた。
 串がやけて地面に落ちた焼き鳥があった。落とした子が、あ、もったいないと言って拾って洗って食べていた。自分で殺したのだから、最後の最後まできれいにいただかなくてはいけないと思った。(昭和61年8月4日) 
                                          
(以下、③/③へつづく)  
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