2016
12.21

「渾沌」の死③/③

Category: 未分類
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 今さら言うまでもないことですが、禅宗には坐禅という修行があります。坐禅というのは、背筋を伸ばし、両足を両足を組み、眼を軽く閉じ、口をつむるところから始まります。このとき顔にある7つの穴の内の3つの穴の機能を停止させることになります。ちなみにこのとき耳を塞ぐことできませんが、坐禅は多くの場合静寂の中で行われる修行ですから、その機能も抑えられているはずです。通常は、この状態で1本の線香が燃え尽きるまで、45分から60分もの時間を過ごすのだと聞きます。
 勝手な想像ではありますが、それは目と口、さらには耳の機能を封じ込めることによって「渾沌」の状態に戻ること、言い換えるなら自らに具わる「仏(仏性)」を蘇らせようとする修行なのかも知れません。あるいは、「わたし(自我)」が働かないようにするため訓練と言えるのかも知れません。
 ただ、これはあくまでも推測であり、本格的な坐禅な修行をしている人にこんな意識は全くないのだとは思いますが…。
 さて、ここまで読み進められた読者の中には、「見ザル、聞かザル、言わザル」のいわゆる“三猿(さんえん)”を思い出された方があるかも知れません。両眼、両耳、口をそれぞれ手で覆う猿に「ザル」をかけてたものですが、こんなふうに考えてくると、これは案外、「渾沌の死」の話をヒントにしたものかも知れないとも思えてきます。
 見えるけれども敢えて見ない…、聞こえるけれど敢えて聞かない…、言えるけれど敢えて言わない…、さらに言うなら、分けられるけれど敢えて分けない…、できるけれども敢えてしない…。このような在り方を推奨しているのが三匹の猿の姿だと思います。それは、日本人が長い歴史の中で培ってきた「わたし(自我)」の心を調(ととの)えるための智恵と言ってもよいのかも知れません。
 守谷氏は、「渾沌の死」の話を次のような具体的な例を出して締めくくっています。そのまま引用させていただきます。
 旅をしている最中に、人の手の入っていない大自然の景観を前にして「素晴らしい、最高の景色だ」と感嘆するのはよいのですが、やがて
「やっぱり道路がないと不便だな」
「自動販売機も欲しいな」
「別荘も建てよう。土産物屋も作ろう」
と手を入れていったとします。すると、自然本来の素晴らしさは払拭され、人工的な観光地になってしまった…。
 もちろん大自然に限らず、世の「合理的」とか「論理的」などといった論理で整理されがちなもの、すべてにこの現象は起こると、荘子は考えていました。
 「弁ずるは見ざる有り」(ものごとは、弁別していくと見えなくなってしまうものがある)。
 年末を迎えました。奇しくも今年は申年でした。来年は酉年です。毎年、干支は移り変わっていきますが、“三猿”が発しているメッセージを私たちは忘れてはならないように思のです。(〆)

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※クリックすると拡大して見られます。


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