2016
12.17

「渾沌」の死②/③

Category: 未分類
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 ではその“あるもの”と一体何か…?仏教では、それを「仏」あるいは「仏性」などと呼んでいます。したがって、荘子が示した「渾沌」と老子が説いた「」、そして仏教が教える「」は、ほぼ同意であると受け止めてよいのだと思います。
 ところで『般若心経』では、「色即是空」のすぐ後に「空即是色(くうそくぜしき)」と続きます。「空即是色」というのは、単純化して言うなら、“全ての有形物は無形物から成る”ということです。つまり、目に見えず、耳に聞こえず、鼻に嗅げず、舌に味わえず、手で触れることもできないものから形あるものが生じているということです。
 したがって「空」を「渾沌」に置き換えるなら、この世に出現しているあらゆる有形物は、「渾沌」が形を得たものということになります。同様に、「仏」についてもその実物が森羅万象であるということになります。
 そこで、荘子の「渾沌の死」の話です。話の中では、目、耳、鼻、口をつけたことで「渾沌」が死んだとあります。これをこの論理に当てはめるなら、「仏(仏性)」が死んだということになります。言い換えるなら、何が何だか分からない、グチャグチャなものが、何が何だか分からない、グチャグチャなものではなくなったということです。「渾沌」が、目、耳、鼻、口を持つもの、すなわち有形物に変化したということです。
 これは発想を換えれば、“人間になった”ということではないでしょうか。つまり「渾沌」の死は、人間の誕生でもあるということです。
 ただ、その内容がこのレベルに留まるとしたら、この寓話が後世まで読み継がれることはなかったでしょう。この先に、荘子の言いたいことがあるのだと思うのです。
 これまでも繰り返し述べてきたように、五官というのは不確かなものです。私たちの五つの感覚機能が独立した形では機能しないからです。それが働くとき必ず「わたし(自我)」の影響を受けることになります。どの機能も、「わたし(自我)」の好みや癖、都合などによって、本来の働きが抑えられてしまいます。そのため、いつも正しい認識ができるとは限りません。
 「貪・瞋・痴」に象徴される煩悩も、そのような五官の働きから生じるものです。「わたし」の狭く偏った知識や認識が他との対比や差別を生み(これが「痴」)、それがもとになって競争となり(これが「貪」)、ひいては紛争や戦争にまで発展(これが「瞋」)することもあります。そのような一連の所業を「渾沌」、あるいは「仏(仏性)」の死としたのではないでしょうか。
 つまり、人間は、目、耳、鼻、口を持ったが故に、「仏(仏性)」を失ってしまったということです。(以下、③/③へつづく)
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