2016
12.13

「渾沌」の死①/③

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   今回は、守谷 淳著『老子・荘子の教え』の中から『荘子』(応帝王篇)にある「渾沌の死(こんとんのしというたいへん不思議な寓話を紹介したいと思います。
 南海の皇帝を儵(しゅく)といい、北海の皇帝を忽(こつ)といいい、中央の皇帝を渾沌といった。この儵と忽は、たびたび渾沌の地で会合をしたのだが、そのつど手厚いもてなしを受けた。渾沌の厚意に感じた二人は、何かをお礼しようと相談した。
 「どうだろう、人間には目口耳鼻あわせて七つの穴があり、それで見たり聞いたり食ったり息をしたりしてするのだが、渾沌にはそれがない。ひとつ、顔に穴を開けてさしあげようではないか。」
 話が決まると、二人は一日に一つずつ穴を開けていった。すると七日目に渾沌は死んでしまった。
 寓話とは言え、たいへん奇っ怪な話ではあります。荘子の真意は果たしてどこにあるのでしょうか。
 ところで「渾沌」とは何でしょうか?読者はどのようなイメージを抱かれるのでしょうか。
 辞書を引くと、「天地開闢(かいびゃく)の初め、天地のまだ分かれなかった状態」とありました(広辞苑第六版)。平易な言い方をするなら、何が何だか分からない、グチャグチャな状態のことでしょうか。つまりは、人智の遠く及ばぬものであり、人間の分別や理解を超えたものということになるのでしょう。
 いつものように独りよがりな思索を巡らせながら、この寓話が発するメッセージについて考えてみました。
 「渾沌」という言葉に、仏教の中心概念の一つである「空(くう)」を連想させられます。『般若心経』の中で読まれる「色即是空(しきそくぜく)」の「空」です。荘子の師とされる老子が「道(タオ)」について問われたとき次のように答えているそうです。
 「目で見ようとしても見えない。だから形がない。耳で聞こうとしても聞けない。だから音がない。手で捕らえようとしても捕らえられない。だから手がかりさえもないのである。その実態さえ突き止めようがないので、そういうものだとして認めるほかない」
 「空」は、これに酷似する概念だと受け止めています。「空」というのも見えないし、聞こえないし、嗅げないし、味わえないし、触ることもできません。その意味では、まさに何が何だから分からないグチャグチャな状態とも言えるのだと思います。
 また、仏教では「空」を“からっぽ”の状態としては捉えません。逆に“あるもの”によって隈なく満たされた状態としています。したがって「空」というのは“あるもの”がグチャグチャな状態で充満しているといったイメージになります。仏教ではよく「不可思議(考えるとができない)」「不可説(説くことができない)」「不可商量(推し量ることができいない)」という言い方をしますが、まさにそうとしか表現のしようのないのが「空」です。(以下、②/③へつづく)
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