2017
03.02

「乾屎橛」④/④

Category: 未分類
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 荘子の「屎溺」も雲門禅師の「乾屎橛」も、そして玄侑氏の「牛糞」も、たいへん極端な話ではあります。しかし、「何かを汚いと思う自分の料簡(りょうけん)こそ、狭く汚いのではないか?」という玄侑氏の指摘に、私は身につまされるところがあるのです。
 「屎溺」も「乾屎橛」、また「牛糞」も確かに衛生的な見地からすれば、好ましくないものであり、できるだけ遠ざけておきたいものではあります。それは否定しません。
 ところが玄侑氏が指摘するように、私たちには得てして自分の好みや都合、あるいは獲得した知識や認識、概念や論理だけで物事を区別し、分け隔ててしまう傾向があるものです。いわゆる「自他」の分離作業です。
 その典型が、今国際社会で起こっている人種や宗教、イデオロギーの違いなどに端を発した様々な紛争ではないでしょうか。そこにあるのは単に概念上の違いだけであるにもかかわらず、それを自らの存立を脅かすもの、それ故に徹底的に排除すべきものという論理にまで飛躍させ、敵と味方を作り上げ、悲劇の連鎖を止められないでいる人間の姿です。
 また、今や学校のみならず会社や地域にまで拡大している“いじめ”の問題もこの延長線上にあるように思います。些細な違いをまるでピンセットでつまむようにして取り出し、それを頭の中で肥大化させて攻撃材料に仕立てる愚行です。
 中国に禅をもたらした達磨の句の一つに「不立文字(ふりゅうもんじ)があります。仏教の真理(あるいは「禅」の真理)は、文字では説明できないものであり、文字を使って理解できるものではなく、文字を使って説明したものは真理から離れていく…。概ね、こんな意味かと理解しています。「自分(人間)が頭の中に作り上げたもの」は当てにしないという禅特有の認識論とも受け止められます。
 要するに文字や言葉は、物事の本質を表す手段にはならないということです。実相と表現とのギャップはここに由来するのだと思います。
 最後まで尾籠な話に終始したことをお詫びしなければなりませんが、今回紹介した荘子の「屎溺」も、雲門禅師の「乾屎橛」も、結局は、文字や概念の持つ危うさをしっかり自覚した上で、注意深く扱うようにという警告ではないかと思うのです。人間(自分)中心のものの見方、考え方から生じる歪みや偏りには、くれぐれも気をつけないといけないということでしょう。
 いずれにしても、今回も、荘子の思想と禅的な思考の類似性にたいへん驚かされたことでした。(〆)

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