2017
02.26

「乾屎橛」③/④

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 “糞かきベラ”などと聞いてよい印象を持つ人はまずないでしょう。そもそもトイレットペーパーのようなものなのですから…。さらに最近では「乾屎橛」を“糞が乾燥して固くなったもの”とする新しい解釈もあると聞きます。となればなおのこと、遠ざけたいと思うのが通常の感覚でしょう(返す返すも尾籠な話になり申しわけありません)。
 これには、それが単に不衛生なものということに加え、不浄なものというイメージもあるかと思います。汚れ、穢れたものとしての受け止め方です。トイレのことを“御不浄”などと呼ぶこともありますが、これなども多分に情緒的なイメージに基づく言い方なのだと思います。
 このように、仏の持つイメージとはとは対極にあるのが「乾屎橛」ですが、それを敢えて仏と呼んだ雲門禅師の真意は一体どこにあるのでしょう。以下は、私見です。
 最も不浄と考えられるものも、実は清浄なものである…、私たちは、この逆説の中から学び取らなくてはならないのではないでしょうか。
 具体的には、言葉や知識、概念や論理などを疑ってみるということです。実相と表現との間にあるギャップを認識することと言い換えることもできるかも知れません。そこには、埋めることのできない溝があるということです。
 玄侑宗久氏は別の著作本『ベラボーな生活』の中で面白い体験談を披瀝しています。氏が修行道場に入門してまだ間もないころの出来事として紹介されているものです。次のような話です。
 ―先輩の修行僧と三人でトラックに乗って畑に入れる牛糞をもらいに農家に出かけた。臭いにはだんだん馴れたが、積み込みが終盤にさしかかったころ、先輩から「スコップじゃ無理だから手を使って」と言われた。思わず「大丈夫ですか?」と聞いたが、逆に「汚いと思うのか?」という反応…。躊躇しながらうなずくと「牛の糞が、何でどんなふうに汚いのか、説明してくれないか?」と返された。結局、答えようがなく、顔を歪めながら牛糞の中に両手を突っ込んだ―。
 これを先輩僧からの“いじめ”などと捉えてはならないことは言うまでもないでしょう。玄侑氏は、このことを振り返り、次のように述懐しています。
 「私は後に知った。考えてみれば、何かを汚いと思う自分の料簡(りょうけん)こそ、狭く汚いのではないか?単に自分にとって他者であるというだけで、他者なりにまっとうに生きている生物すら、我々は「ばい菌」と呼んで汚がったりしている。(中略)牛糞を掴みたいわけではないが、あまりにも根拠のない「汚さ」が、世の中に多過ぎはしないだろうか?
(以下、④/④につづく)

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