2017
02.18

「乾屎橛」①/④

Category: 未分類
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 今回も、「荘子の思想」と「禅的な思考」との相似性を窺わせる興味深い話を一つ紹介したいと思います。玄侑宗久(臨済宗の僧侶、作家)著の『荘子と遊ぶ』にあった話です。ただ、たいへん尾籠な内容を含んでいることを予めお断りします。
 東郭子という男が荘周(荘子)に尋ねます。「いわゆる道というのは、どこにあるのでしょう」。すると荘周は「どこにでもあるよ」と答えます。
 以下は、その後の二人のやり取りです。
 東「具体的に言ってほしいな」
 荘「じゃあ、オケラかアリかな」
 東「ずいぶん下等なんだね」
 荘「イヌビエ(穀物の一種)にもあるよ」
 東「もっと下等じゃないか」
 荘「瓦や敷き瓦にだってあるよ」
 東「まいったなあ」
 荘「屎溺(大小便)にもある」

 これを聞くと、東郭子はあきれて黙ってしまったと言います。
 この話に触れたとき、いつも引用する禅問答集『無門関』第21則にある「雲門屎橛(うんもんかんしけつ)という不思議なやり取りを思い出しました。
 ある修行僧が雲門禅師に「仏とは一体どのようなものでしょうか?」と問います。すると雲門禅師は一言、「乾屎橛(かんしけつ)」と答えます。たったこれだけの内容なのですが、ここでは禅師の真意がどこにあるかを問われるようです。
 「乾屎橛」というのは聞き慣れない言葉ではありますが、一般には“糞かきベラ”と訳されます。紙が貴重品だったころ、落とし紙に代わる用具として使われたものとされています。「道」と「仏」、問われているものにに違いはありますが、この場合、双方ともほぼ同意のものとご理解ください。要は、「大宇宙を貫いている真理」を尋ねているということです。
 それにしても、禅ではなぜ、選りに選ってこんな尾籠な話を持ち出すのかと疑問を持たれる読者も多いかと思います。確かにそうだと思います。ただ、そこには深長な意味があることを理解しなければなりません。この先も。少し我慢してお付き合いいただければと思います。(以下、②/④につづく)

54-5 丈山苑 
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