2016
11.15

恥ずかしいから使わない ②/③

Category: 未分類
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 私たちの身の回りには、おびただしい種類と数のコンピュータが存在します。身近なところでは自動車やエアコン、テレビ、洗濯機、掃除機、カメラ、携帯電話、照明器具など、当たり前のことのようにコンピュータが組み込まれています。人間の意向に合わせてその機能が働くわけですから、確かに生活は便利で快適になりました。
 しかし、昨今はそのことがあまりにも当たり前になっているために、人間が持つ本来の瑞々しい感覚や感性の鈍化も懸念されます。それに、一旦、それらが故障すれば、私たち消費者は全くお手上げです。自力での修理などとてもおぼつきません。さらには、急速に普及を示しているパソコン、ケイタイ、スマートホンなどにまつわる、いわゆるネット犯罪など深刻です。その意味では、たいへん不便であり、不安な社会にもなりました。
 先の老人の答えの中に「機械を用いるものは、必ず機事をするようになる」という言葉がありましたが、「機事」とは物事を企(たくら)むことです。コンピュータに象徴される様々な機械を大量に開発・生産し、流通を拡大することで大きな利益を上げようというのは企(たくら)みに他なりません。そして、そのような企みによってもたらされる業(わざ)が、現在の私たちの不便や不安のもとになっているとも言えます。奇しくも、二つの文字を合体させると「企業」となるのは、何とも皮肉なことではあるのですが…。
 結局、「恥ずかしいから使わない」という言葉は、必要以上に文明に頼りすぎることへの警戒心を述べたものではないでしょうか。先のコンピュータの例のように、文明には光の部分と影の部分があります。そのことをしっかりと踏まえないと、その先に思わぬ落とし穴があるということです。
 また、先の老人の答えの中には、次のような文言があります。
 「からくり事(機事)をする者は、必ずからくり心(機心)をめぐらすようになる。からくり心(機心)が芽生えると心の純白がなくなり、そうなると精神も性(もちまえ)の働きも安定しなくなる。それが安定しなかったら道を踏み外すだろう」と。
 荘子の思想の基軸は「天」にあります。荘子に強く影響を与えた老子はそれを「道(タオ)」と呼んでいます。「天」あるいは「道」には深長な意味があるのですが、ここは単純に人が人としての生きていくべき「道」と受け止めてもよいのではないでしょうか。
 老人が恥じているのは、機械を使い、機事(企み)をする者となり、機心(偽りを企む心)が芽生え、やがては人としての「道」を踏み外すことなのだと思います。人間本来の力を用いず、その仕事を機械や道具に丸投げし、そこからもたらされる実体を伴わない価値判断に引きづられ、右往左往している現代人の姿が重なって見えるのは私だけでしょうか。(以下、③/③につづく)

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※クリックすると拡大して見られます。




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