2016
11.07

大夢俄に遷る ③/③

Category: 未分類

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 こんなふうに考えると、一人の人間が100年の生涯を送ったとしても、宇宙の営みからすれば、極々……一瞬の出来事であることが気づかされます。私たちが生まれる前には、途方もなく長い時間が流れていたわけですし、私たちが死んでからも途方もなく長い時間が流れるはずです。
 こうなると、私たちが生きている「現実」は、本当に「現実」なのか、むしろ私たちが生まれる前、死んでからの時間の方が「現実」と呼ぶのにふさわしいのではないかとの思いも浮かんできます。人間一人の生涯など「夢」のようなものであるという喩えもあながち外れていないようにも思えてきます。となれば、私たちが「夢を持とう」「夢に向かって進もう」などというときの「夢」(いわゆるAmerican Dream)は、もはや「夢」とも呼べないものになるでしょう。これが「小夢」なのでしょうか。

 ただ、こんな見方に立つと、私たちが生きることにどのような意味があるのだろうかと、何か空しい気持ちにもなります。どのように生きたとしても、所詮は「夢」の中での出来事なのですから…。
 ところが、次のような見方もできます。よいことが「夢」に終わることは忍び難いとしても、人生にはよいことばかりがあるわけではありません。悲しいときや辛いとき、思うようにならないときが必ずあります。しかし荘子の思想に随うなら、そのようないわば負の「現実」もいずれは「夢」になることになります。つまり、いいことも「夢」になるが、悪いこともやがては「夢」になるという理屈になります。
 こんなふうに考えると、何か勇気づけられ、気が楽になるのは私だけでしょうか。結局は、「今」をしっかり生き切ということだと思います。過ぎたことは変えられません。先のことは分かりません。「今」が順境であれ、逆境であれ、私たちにできることは、「大夢(だいむ)にわか)に遷(うつ)る」まで、「今」を精一杯に生きることしかできないのだと思います。また「小夢」を持ったとしても、あまりそれに拘わったり、縛られたりしないことではないでしょうか。
 最後に余談ですが、“禅の思想に連なる思想は以前から中国にあった”という言い方は正確さを欠くのかも知れません。歴史的な経緯からすれば、まず中国に老荘思想(老子と荘子の思想)が起こり、その後インドから禅の思想がもたらされ、中国に禅が確立したわけですから、日本にも伝来した中国禅の源流は、老荘思想の中にあったとも言えます。さらに言うなら、中国に老荘思想があったからこそ、禅の思想が中国に根づき花開いたと見ることもできます。
 今回は「夢と現実」の問題に焦点を当てたのですが、この他にも荘子の思想には禅の思想に重なる部分が実に多いことに気づかされます。玄侑氏の著作に頼りながら、しばらく、荘子の思想についても勉強してみたいと思っているところです。(〆)

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※クリックすると拡大して見られます。
次回は、「恥ずかしいから使わない」を掲載(3回配信)します。ぜひご訪問ください。

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