2016
10.22

「主人公」を生きる ②/③

Category: 未分類

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 禅では、主体性とは、あらゆる束縛から解放され、自由自在な様子を言います。したがって、禅の捉える主体性の特徴は、自由自在に心を働かせることにあります。
 自由ということは、自らに由るということです。自在ということは、自ずから在るということです。いずれの場合も「無心」、つまり私心が無い状態にある自分のことであり、力(りき)んだり、怯(ひる)んだりすることなく自然体で動いていける自分のことです。心に何もないから、いつどこでも何にでもなれ、自由自在だからこそ、本来の力が発揮できるということです。反対に、心に何かかがあると、それに囚われ、縛られてしまって、心の自由が失われてしまいます。そのために持ち前の力が発揮できません。
 好成績を収めたスポーツ選手が、その競技を振り返り、「無心」で臨んだことの効用に言及しているシーンをよく見聞きすることがありますが、これなどは前者の例でしょう。反対に、結果を意識したばかりに動きが悪くなり、目指すパフォーマンスができなくなるというのは後者の例でしょう。
 もう一つ、身近な例を出してみたいと思います。車の運転の場合です。免許を取り立ての頃には、ただひたすら前方に視線を置いてハンドルを握ったのではないでしょうか。とても、周りの景色を眺めるような余裕はなかったはずです。
 ところが運転に少しずつ馴れてくるとその視線は、バックミラーやサイドミラーなどにも広がってきます。そして、そのうちには車外の景色も目に入ってくるようになります。さらに馴れてくれば、スピードメーターやタコメーターなど、計器類にも目が向くようにもなります。そうなれば、私たちは自然体となって、自由自在に運転が楽しめます。禅が主張する主体性とはこのような有り様のことではないでしょうか。
 運転者が車外の景色ばかりに気を取られたり、スピードメーターやタコメーターばかりを見ながら運転していたら、その結末は明らかです。また、悩み事や心配事などを抱えながら運転する場合も同様でしょう。安全運転はとてもおぼつきません。いずれの場合も、心が一つの「こと」に囚われ、縛られしまうために、自由が奪われてしまうからです。
 禅では、本来の自己を、きれいに磨かれた鏡に喩えることがあります。
 その前に月があれば月を写し、花があれば花を写し、お年よりが立てばお年寄りを写し、子どもが立てば子どもを写し…、
 
といった具体です。もし月だけしか写さない鏡や、子どもだけしか写さない鏡があったらどうでしょうか。あるいは、前に写したものの姿をそのまま留める鏡があったらどうでしょう。それは、鏡とは言えせん。きれいに磨かれた鏡だからこそ、何でも写すことができるのです。これが、曇りも濁りもない、清らかな心、つまり「主人公」のイメージに重なるのだと思います。  (以下、③/③につづく)

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