2016
10.10

「瓦を磨く」③/③

Category: 未分類

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 ところで、人は生まれながらにして、仏あるいは仏性(仏になる性質)を具えているという禅の主張にどうしても同意できないという読者もあるかも知れません。仏教は性善説に立脚する宗教ですが、そもそもそれにどんな根拠があるのかという疑問に根ざすものかと思います。
 購読している書籍の中にたいへん興味深い文章を見つけました。神経科学や薬理学を専門とし、海馬や大脳皮質の可塑性を研究されているという池谷裕二(東京大学大学院准教授)の話でした。その一部を紹介します。


 「共感」という反応は生物進化の過程で作り上げられてきた。…淋しさや孤独を感じるとき、脳では「痛み」を感じる部位が反応する。前頭葉にあるACC(前帯状皮質)という領域である。ACCという領域は、(心が痛む、胸が痛むなど)「孤独感」に反応する他、「共感」に対しても反応する。相手が痛い目に遭っていたり、辛そうにしているとき、自分も「痛そうだな」「辛そうだな」と感じてあげられるのが「共感」だが、このとき脳では、「痛み」の神経が働いている。つまり、相手と同じ立場に立って、痛みを本当に分かち合っているのである。
 この神経は、生物の進化の過程でも、かなり初期の頃の動物、例えば魚類や両生類などの時代から、長い時間をかけて精巧に作り上げてきたものだと考えられる。(動物たちは)進化の過程で、もともとあった神経系を使い回している…。   


  これを仏教の性善説の根拠にするとしたら、あまりに乱暴でしょうか。私はそうは思いません。「(動物たちは)進化の過程で、もともとあった神経系を使い回している」という指摘は、注目に値すると思います。「共感」という反応は、仏の持つ「慈悲」という働きに通じるもです。それが生物進化の過程で、魚類や両生類などの時代から作り上げてきたのであるとするなら、人間の心の内には間違いなく「慈悲心」が組み込まれているはずです。言うまでもないことですが、人間は最も遅れて誕生してきた動物です。
 無文老師は次のようにも述べています。


 生まれたままの純粋な自己の本性(仏)を見届けることが坐禅である。…純粋な人間性が自覚されれば、道徳はそこに自然にそなわっている。…悟りを開けば何をしてもそれが善だ。何もないところから生じる心は全て善である。行えば全て善である。


 余りにも楽観的すぎるのではとの声もあるかも知れません。あるいは、それを「信仰にかかわる問題」と受け止める読者もあるかも知れません。しかし、私は人間の心の奥底に自我を超越した「純粋な本性(仏)」が息づいているという仏教の考え方にたいへん心惹かれるのです。
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 最後に余談です。先日、ある公園に写真撮影に出かけたとき、傍らに古そうな小さな石のお地蔵さんを見つけました。そのお顔は永年にわたる風雪の影響からかすっかり崩れてしまい、その表情を窺い知ることができないほどでした。ただ、その胸には真新しい赤い前掛けが掛けられ、きれいな花も手向けられていました。そのとき、とある思いが脳裏を過ぎりました。
 仏というのは崩れかけた石の塊にあるのではなく、それを拝む人の心の中にあるのではないかと…。考えすぎでしょうか?(〆)

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※クリックすると拡大して見られます。

次回は、「主人公を生きる」を掲載(3回配信)します。ぜひご訪問ください。


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