2016
10.06

「瓦を磨く」②/③

Category: 未分類
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 そもそも禅で行われる厳しい修行というのは、なんのために行われるのでしょうか。「悟り」を開いて仏に近づくためというのが、一般的な理解ではないでしょうか。
 道元の開いた曹洞宗では「只管打坐(しかんたざつまり、ただひたすらに坐禅に打ち込むことによって成仏につながるとされます。坐禅をすることにより、自己(自我)が脱落し、生き生きと仏性が活動するということです。南嶽の「坐禅しても仏にはなれない」という教えとは相容れないようにも見えます。果たして、南嶽の言葉の意図はどこにあったのでしょうか。また、心の問題とはどのような意味なのでしょうか。
 先日、数年前から通っている禅セミナーで、このことについて山川宗玄(やまかわそうげん)老師(岐阜県美濃正眼寺住職)から一つの見解が示されました。それは、「仏になろう」とすること自体が「仏から遠ざかる」ことになるという逆説めいた指摘でした。
 禅の思想によれば、仏というのは“無心”、つまり“私心が無い”状態にある自分のこととされます。仏になろうなどと欲を出して坐禅するなどということは、仏とは遠い行為だということです。
 山田無文(やまだむもん)老師は、次のように述べています。(「六祖壇経」の提唱より)。
  仏などというものが空間にあるはずはない。他の世界にあるはずものない。人間を取って除いて、どこにも仏など探し求めるところはない。…自分の心がそのまま仏だ。身贔屓(みびいき)で枉(ま)げさえしなければ、利己的な欲望に囚われたりしなければ、「自心是れ仏」だ。人間の心が皆な仏様である。…自分の心の中の良識が仏だ。こう信じるほかに仏を求めるところはない。
 これが禅(禅宗)の基本的な立場だと理解しています。白隠(はくいん)禅師が『坐禅和讃』に「衆生本来仏なり」と詠っているように、人は誰も生まれながらに仏であるとされます。ところが、煩悩がそれを覆い隠しているために、私たちは仏に気づくことができません。坐禅も含め、禅で実行される厳しい修行は、自分の中にもともと仏があることを見届けるために行われるものです。
 結局、南嶽禅師にしても山川老師にしても、何も求めず、何も考えずにただ坐ることの大切さを説いたのだと思います。無文老師の言葉を借りるなら、そこに身びいきや利己的な欲望を持ち込まなければ、私たちは“そのままで仏である”ということになります。だから仏になろうなどと欲をかけば、逆に仏から遠ざかってしまうというわけです。
 牛と車の話も、そのことの本末転倒を諌めたものではないでしょうか。車を打っても動くはずもありません。それを曳く牛に鞭を当てなければ車は動きません。すでに仏の身であるのにもかかわらず、坐禅をして仏になろうなどというのは、根本と末梢とを取り違えていることになります。そこを南嶽は「心の問題」としたのではないでしょうか。(以下、③/③につづく)

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