2017
08.13

心とは何か?④/⑤

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  良寛禅師(以下、良寛とします)、晩年のことです。出雲崎にある良寛の実家を継ぐべく甥が、酒に溺れ、老いた父母の嘆きは一通りではありませんでした。何とか意見をしてくれと懇願され、良寛は久しぶりに実家を訪れました。息子もその状況をよく理解していたようで、さすがに良寛の前では真面目な態度でした。そのこともあり良寛は、ただの一言も意見がましいことを口にしませんでした。
 そして、数日後、いつまでいても同じことだからと、良寛は庵に戻ると言い出しました。親たちは内心、何のために来てもらったかと、すこぶる不満でした。しかし、良寛は一向に無頓着でした。
 庵に戻る日、良寛は玄関でわら草履を履こうとしまします。ところが、歳をとったその手先は、紐を結ぶのに不自由していました。息子はそれを見るや、土間に降り、草履の紐を結びました。と、その手にポトリ、ポトリ、小さな滴の玉が落ちてきました。息子がひょいと顔を上げてみると、良寛の目にいっぱい涙がたまり、光っているのが見えました。
「どうなされましたか?」
「いや、何でもないわい。わしもこの歳だでな。これがお前との別れになるやも知れぬ。まあ、気をつけてな。」
 息子の目にも涙が光りました。そして、遠くまで見送って家に帰ってきた息子は、それ以来、フッツリと道楽を断ったといいいます。
 これらの逸話をどのように受け止められるでしょうか?
 二人の僧侶の行為の中に、心を感じない読者はいないと推測します。言葉はありませんが、その心はそれぞれの行為の中に見事に表れていると思います。その内容についての解説は不要でしょう。そんなことをしたら、興ざめになるのがオチです。
 これまでも紹介してきたことですが、禅には「不立文字(ふりゅうもんじという言葉があります。禅の始祖とされる達磨大師が残した言葉です。仏教の真理(あるいは「禅」の真理)は、文字や言葉では説明できないものであり、文字や言葉を使って理解できるものではない…。文字や言葉を使って説明したものは真理から離れていく…。 概ね、こんな意味かと理解しています。
 これを拡大解釈するなら、本当に伝えたい心は、言葉や文字に頼らないほうがよいとも受け止められます。私たちは、伝えたことがあると、往々にして言葉が過ぎるものです。
 思い返せば、私にもそんな傾向が色濃くあります。悪い癖だと思うのですが、なかなか改められません。そもそもこのブログ自体が、その悪癖の延長線上にあるものと言えるかも知れません。私自身が、先の二つの逸話から、心の伝え方について、大いに学ばなければならないのだと思います。(以下、⑤/⑤につづく)

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