2016
09.04

イタイ!を忘れるな④/④

Category: 未分類

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  ただ、これまでも述べてきたとおり、禅の立場は明確だと思います。禅師にまつわる二つの逸話から類推する限り、禅では、「善は急げ」を推奨しているのだと思います。
 こんなことを言うと、「では、何が善で、何が善ではないのか?」という疑問が湧くかも知れません。これには、次のような答えができるのかと思います。「急いでしていることはすべて善である」と。
 先の例のように、自我(エゴ)が関与することで、往々にして「苦」は増幅することがあるものです。禅にあっては、自我(エゴ)から離れ、自分勝手や自己都合を排除することが善とされます。先に述べたように『受』から得られる情報は、自我(エゴ)の影響から一番遠いとこにあるわけですから、すべてが善であるという理屈です。
 読者には、軽々には与することのできないと思われるかも知れません。ただ、こんな経験はないでしょうか。
 満員の電車に座っていて、お年寄りや身体の不自由な方が乗ってきた場合です。こんなときには、真っ先に「席をかわってあげよう」という気持ちが湧くものですが、時間の経過とともに、考えが変化することがあります。「他の乗客の手前、善人ぶっているように思われないだろうか…」「あの人は、立っていることが案外苦ではないのかもしれない…」「もしかすると、同情されるのを拒否するタイプの人かも知れない…」など、次々に勝手な思いが頭を過ぎり、結局は、何もしないで終わってしまい、後で後悔するような場合です。(恥ずかしながら、これは若いころの私自身の経験でもあるのです)。
  「急がば回れ」という諺を例にするなら、「急ぎ」のときに「遠回りしよう」などと考える余裕を持つと、そこに自分勝手や自己都合が働き出し、善から遠ざかることなのでしょう。
 また、私見ではありますが、善の必要条件を“人から喜ばれることをする”と定義するなら、自我(エゴ)の影響を受けないように努めること自体が善に通じると言えるのかも知れません。
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  いずれにせよ、禅師にまつわる二つ逸話は、「初念(最初に起こる思い)」を大切にする禅の思想を象徴的に示す話だと思います。禅によれば、初念は仏心でもあります。私たちが、仏心に近づきたいという願いを持つなら、『受』の意味するところを今一度、見直す必要があるのかも知れません。
 最後に、釈迦の残した言葉を紹介して、今回のブログを閉じたいと思います。『発句経(ほっくきょう)』にある言葉です。


 善をなすのを急げ、心を悪から遠ざけよう。
 善をためらっていては、心が悪を楽しんでしまう
。(〆)

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