2016
08.31

イタイ!を忘れるな③/④

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E382B9E382ADE383A3E383B30013-6cbce.jpg [雲龍図(妙心寺法堂)]
 仏教は注目すべき考え方があります。『受・想・行・識』という精神活動は『受』から『想』、『想』から『行』、『行』から『識』と進むにつれて、だんだん自我の影響が強くなるというのです。どのようなことなのでしょうか。たとえば、次のような場合です。


 夜、道を歩いていて郵便ポストにぶつかり「イタイ!」と感じた瞬間、自我(エゴ)が働く余地はないだろうと思います。ところが、しばらくすると、その道に街路灯がないこと、郵便ポストの塗装が剥げ落ち、識別しにくくなっていることなどへの不満が芽生えてくるのかも知れません。そして、次の日には自治区の役所や郵便局に出向き、不満をぶつけながら街路灯の設置やポストの再塗装を要求するかも知れません。また、その際に担当者の対応が悪かろうものなら、喧嘩になることもあるでしょう。そんな事態にでもなれば、自治区や郵便局に対するイメージがどのようなものになるかは、推して知るべしです。


 このように、自我(エゴ)の関与があると 『受→想→行→識』と進むにしたがって、だんだん問題がこじれる場合があります。いえ、私たちは、案外こんな調子で日常生活を送っていることが多いのかも知れません。
 一つ目の逸話に話を戻すなら、「イタイ!」は自我(エゴ)に無関係です。痛いときは、ただ痛いだけです。そこで完結しています。「イタイ!」と感じたら、その部分をさするなどして、次からそこを歩くときにはぶつからないように気をつければ済むことです。
 自我(エゴ)の関与を抑制する生活を心がけることで、余計な苦しみや悩みから解放される…。
 自我(エゴ)が働き出す前の自分こそが本来の自分であり、それを感じながら生きていくことに人としての本道がある…。
 
禅師の説法の真意は、こんなところにあったのではないかと思うのです。
 二つ目の逸話、雨水をザルで受けようとした雲水の話も同様だと思います。「何か持ってこい!」という大声を聞いた雲水は、とっさに側にあったザル手にとり駆けつけました。禅師は、雲水の自我(エゴ)を超越したその行動を評価したのではないでしょうか。『受』の一瞬にこそ意味があるということです。その場に臨み、あれか、これかと悠長に思案しているようでは、禅にあっては及第点はもらえないということなのでしょう。

 ところで、日本には古くから「急がば回れ」という諺があります。成果を急ぐなら、一見遠回りであっても着実な方法をとった方がよい…、こんな意味だと思います。また、よく似た諺に「急いては事をし損じる」というものもあります。あまり急ぐとかえって失敗を招きやすくなるという戒めかと思います。禅師の説法とは真逆の関係にある生活訓です。
 また、その一方で「善は急げ」という言葉があることも周知のとおりです。「よいことをするのにためらうな」ほどの意味です。
 一見して矛盾しているように思われる二つの諺ですが、どちらが正しいかが問題ではないのだと思います。ご承知のとおり、諺というのは、そのときどきの場面や状況などによって、適切に使い分けられるものです。あるときには「善は急げ」となり、また、別のあるときには「急がば回れ」となります。(以下、③/④につづく)

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