2016
08.27

イタイ!を忘れるな②/④

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20140914-myousinji.jpg [京都・妙心寺]
  さて、読者は禅師の説法をどのように受け止められるでしょうか?これでは何のことかよく分からないという声もあるかと思いますので、その真意を推理するための手がかりとして、もう一つ禅師にまつわる逸話を紹介します。以前、本ブログで紹介した逸話ですので、ご記憶の読者もあるかと思います。


 上洛した禅師は、花園上皇の離宮をもらい受け、妙心寺として創建するのですが、今でこそ七道伽藍を配する壮大な寺院も、禅師が開山となったころには、雨漏りのする粗末な造りであったようです。
 ある雨の日のことです。禅師の部屋から雲水を呼ぶ声がします。
「何か持ってこい!」
「そら、また雨漏りだ。早く何か持って行け!」
 修行僧たちは大騒ぎです。そのとき、一人の幼い修行僧が台所にあったザルを持って真っ先に飛んでいきます。禅師は、それを見ると言います。
「これだ、これだ。よく持ってきたな。」
 禅師は上機嫌です。そんな禅師のところへ、少ししてから別の修行僧がオケを捜して出して、差し出します。すると禅師は、烈火のごとく叱りとばします。
「バカ者め!そんなものが役に立つか!」


 いかにも「禅」的なやりとりです。禅師は、幼い修行僧の分別のない純粋な心、無心な様子を褒めたのだろうと思われます。

 仏教では、肉体と精神を『色・受・想・行・識』で表します。『色』が肉体です。そして『受・想・行・識』が精神(および精神活動)を表します。そのうちの『受』は、「眼・耳・鼻・舌・身」の5つの感覚器官を通して外部の世界を感受することです。それによって捉えられるのが形であり、声であり、香りであり、味であり、痛みなどということになります。ちなみに『想』は、思うこと、『行』は、行うこと、『識』は、認識することとされます。
 したがって、最初の逸話は、『受』のうちの「身」、つまり、触覚にまつわる話と言えるでしょう。また、二つ目の逸話は、「耳」あるいは「眼」、つまり聴覚、あるいは聴覚に当たるものかと思います。
 これまでも繰り返し述べてきたように、禅の最大関心事は、いかに自我(エゴ)の影響を排除するかということにあります。その先に「悟り」の境地があるというのが私の理解です。
 したがって、本来なら自我(エゴ)を解体してしまい、働かないようにしてしまうのが理想なのでしょうが、それは現実的ではありません。また、それを最終目標としてしまったら、禅宗は“生きる屍”を作り出す宗派ということになってしまいます。自我(エゴ)を抱えながら、その影響を極力抑制しようと努力することの中に、禅の目指す現実的な在り方があるのだと思います。(以下、③/④につづく)

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